宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

アイデンティティを引き受ける

怒りはエネルギー。

うちの家系のひとびとは、みな癇癪持ちだったりそうであったりした。要するに我が家族はあらゆる感情が灼熱のまま混ざり合った巨大な溶解炉を持っていて、中身はいつも煮えたぎっている。15年くらい前の実家では、一軒家の中に溶解炉が四つもあって、危険な事故が幾たびも発生した。どう危険かと言えばお察しの通り、超高温にまで高められた感情液が何かしらの化学反応によって急激な変化を起こし、溶解炉ごと爆発するのである。この爆発は見事なものだ。空虚な世界に熱波と火を吹く流体を瞬時にぶちまけてしまうのだから。家族や親戚にはこの溶解炉を苦心惨憺の果てに固く封印してシンゴジラみたいに有姿除却に成功した人もいるが、ぼくは一見はた迷惑なこの炉の性質を理解し引き受けて、いっそ芸術の域にまで高めたいと望んでいる。炉に怒りを流し込み、徹底的で見事な破壊の爆発を計画している。ぼくが中学生のとき、セックスピストルズのジョンに惚れ込んで、パンクにのめり込んでいくうちに、こんこんと湧いて溢れかえる憤りや情動を利用する術とその美しさとを知ったのだ。これがぼくの創作活動の原点なのである。

このことを、決して忘れてはならない。

流転しつつも目は開き

 食品加工場での仕事が見つかった。2日目を終えて、純粋な熟練のみを要する肉体労働の、快くも骨身に染みるような疲労を感じている。1ヶ月もの間働いていなかったこともあって、かなり身にこたえている。無職のまま日本に戻り福岡で酒に浸かり、山口でだらけ切り、東京でもまた、酒で赤らみ呆けた顔を昼夜ともなくぶら下げていた。カナダに戻ってからも似たようなものだった。気が向けば散歩はしたが、暗い部屋で本ばかり読んでいたので、身体にカビが生えてしまっていた。それらの日々と働き始めた2日間とを比べると、1日の長さは違う。まるで飛脚と新幹線だ。今や時間が足りなさすぎる。洗濯物も処理できず、読める本の文量がかなり減った。鉄工所で働いていた頃のように仕事に慣れて上手く両者のバランスを取れれば御の字なのだが、あれは実家で暮らしていたからこそ家事の大半を免除されていたといいう恩恵があった。ともかく先のことはわからない。古い小さな加工場に閉じこもって幾度となく繰り返しの作業をする、地味な仕事だ。浮ついていなくて素敵な仕事だ。僕が人生を手で掴むために必要な類いの仕事だ。異言語圏の島からやってきた移民の労働者である僕がようやく大陸での暮らしに足を踏み入れることが許されたのだ。とにかくいま僕は懸命に生きている。とにかく働いてさえいれば確実に金は入ってくる。懸命に生きた自分の経験を理解するためのものとして芸術を活用するというやり方でなければ、僕の作りたい作品は作れないだろう。だから、まずは懸命に生きるのだ。真面目に生きなければいけない。それは僕がずっと恐れていたことだ

要するに部屋の掃除をしなくちゃいけなくなると普段は面倒でしないようなことをしたくなるということ

キャンモアで最後の休日だからって、何か特別な日というわけではない。山河をどれだけ見つめていようが目に焼きつくなんてことはあり得ない。

だからと言って書き終えた小説に手を入れたりするのはちょっと違う。バンクーバーへ向かう13時間のバスの車中、半日がかりで太平洋上の空を横断する飛行機の中、成田で翌朝の福岡行きの飛行機を待つ間...。そこには馬鹿みたいに座っているだけの時間があるのだから。

荷造りをするつもりだ。いつもギリギリになってしまうから、先に片付けて思考をはっきりさせるのがいいだろう。今書いているこのブログも、思考の整理作業だ。急がば回れとはまさにこのこと。少し遅く目覚めた1日をこのまま無駄にしないためにも、椅子に座り、今日という1日を机上に据える。こうして、ごく近い過去、現在、未来の時間を俯瞰して眺める行為はすごく有意義だ。

 

とうとうこの小さな街を離れる。潮時なのだ。僕はまだ金や義務の重みで動けなくなるほど中身がぎっしりしてやしないから、どこへだって行ける。でもアメリカを旅していた時に感じていた、自分は風に流されるままのビニール袋だという感覚とはまた少し違ってきているから面白い。少しずつ、いろいろな責任を受け入れる準備をし始めているように思う。バイクで日本全国を旅した果てにダムに飛び込んだ青年がいるそうだが、彼のことを下地にして自分のことを物語ってみたいと思った。彼は死に、僕は生きている。そこに何の違いがあるのだろうか。

NON

 自分の父親がこのブログに目を通すことを日々のルーティンの一つにしていることを察して以降、一切書く気がしなくなったこのブログを、あえて父のために書くことにする。

 ただ、以前に何度も繰り返し懇願した通り、どうか読んだという報告や、会話の折に内容について触れることだけはどうかお控えいただきたい。読んでいることはちゃんと知っている。ラグビー選手として大成し、優れた知性も理性も併せ持っているあのY君でさえ、試合の後日ご両親から上手くいかなかったプレーについてあれこれ言われるのはどうにも閉口すると私に話してくれたことがある。それが元来器量は狭小、考えが浅薄で癇癪持ちの私ではそれは閉口どころの話ではないのである。それに、このブログは僕が文章を書く練習をしたりネガティブな感情を吐き捨てておくための場所なのだから、父子での会話の最中にわざわざそこから悪臭のするゴミや書き損じの手習いを拾ってくる必要があるだろうか。

 要するに、ご要望の通りときおり書くが、読んでも子の世界観を知る上での参考程度にとどめておいていただきたいということである。

 それに、全部が全部本心で本当の話であるとは限らない。

 

*

 

 さて、夜、私は座禅の真似事をしようと思った。最近はいい事がすごく多いはずなのに、この夜はなぜか原因のはっきりしない苛立ちが尾を引いていてどうにも抑えられなかったからだ。まさに心中では癇癪玉が爆発していた。それから心は揺れに揺れ、憎しみが鳴門の渦潮のようにうねりまくっていた。あぐらをかいて目を閉じるだけでそいつが凪いで明鏡止水。月を少しもたわみなく、そのまま水面に映し出されるとまで思っちゃいなかったが、せめてスマホも触らず静かに座っていることで私の子飼いの捜査班たちが癇癪玉に火をつけた下手人が誰か捜索するための一助にはなると思ったからだ。

 はじめる前に困ったのは清潔な床がないことだった。名のある禅僧とかなら土足で踏み荒らしているカーペットの上でも平気に座禅を組めるのだろうが、私はそうもいかなかった。そうすると、ベッドやソファの上かテーブルの上くらいしか清潔なところはないのだが、方や柔らかすぎて、方や素っ頓狂すぎて集中できたものではない。もちろん縁側なんてものはない。屋外ならば芝生やらなんやら座れるところはあるのだが、夜に、しかも衆人環視のもとに出てまでする気はしなかった。この問題はキャンプ用のマットが押入れの隅に転がっていることを思い出してなんとかなった。

 いざ窓を少し開け、モーテルの客が忘れていったキャンドルに火をつけて、あぐらをかいて指先を合わせた。目を閉じて、遠くで車が来て過ぎるまでを聞いて感じる。すると携帯が振動する。馬鹿め。こうなってはもうおしまいだった。一度に5、6度短く震え、誰がこんなにしつこくメッセージを送ってくるんだと気になってしまった。それでも少し抗って座禅もどきを続けてはみたが、一切は空だといくら今躍起になって心中で唱えてみたところで、この座禅の物真似が終われば真っ先に携帯を引っ掴んでメッセージを確認することはわかっていた。それならばなぜ今こうやって無理をしているんだ、何にもなりやしないのに。と思って悲しくなった。誰も見てやしないのに格好つけて、まるで時間の無駄じゃないか。と思って虚しくなった。結局10分もしないうちにそのメッセージやTwitterを見て苛々し始めたから、目を休めただけで他になんの意味もなかったことは自明ではあるのだが、モンティパイソンが人生や死の明るい面を見つめようと歌っているとおり、何事も悪いことだけじゃない。いいことを結論から言うと、どうして私がこんなに気が立っていたのかの原因を少し整理することができた。ざっくり言えば職場の人間関係で、まあ、これまでに1000回も繰り返してきたことだ。他人を所有して思い通り動かそうとするのは結構だが、残念ながら私にそのお人形の役は向いていない。

 座禅もどきをやってよかったことは他にもある。思い至った苛立ちの原因や心の動きなどについてむあっと日記に書き連ねることができたことや、それでも書き足りないエネルギーをここに費やせたことだ。直接座禅で気が鎮まるわけではなかったものの、書く気になり、書いているうちに落ち着いた。書くことに良い影響を与えていそうだから今後も座禅の真似事を続けてみよう。

 

山師の一生

虞美人草』を読み終えた。最初のうちはオーディオブックで聴いていただけだったのだが、あまりに面白くて途中からは活字で読んだ。創作期間中の読書はまさに宝探しである。その宝探しのツルハシの先が見事鉱脈を掘り当てたのである。並行してKindleで読んでいる志賀直哉の『暗夜行路』の方はいま取り掛かっている戯曲に直接的な啓示を与えるものではなかったから、名作と言われて読み継がれてきたものならば何でもかんでも当たりというわけではないようだ。ある商人が銅の仕入れのために山陰の海上を航行しているとき偶然光る山を見つけて石見銀山の銀鉱を手に入れたエピソードに似て、仕事中の暇つぶしにと流した漱石の小説こそが救いの神からの啓示であったのだ。あとはそこを掘るだけだ。

かの小説は大いに戯曲の構成を意識したものである上に重要人物として煮え切らない詩人の男が出てくる。彼の他人を欺いた行動は周囲を不幸に導くのである。僕の書いている戯曲の主人公も詩人である。僕自身の卑怯な性格を切り抜いて投影したものであるから(このブログを多少なりとも読んだことのある方は既にお分かりであろうが)情けないほどに弱いひとなのである。驚くべきことに、漱石の書いた詩人も己の弱さに辟易としており、泰然とした人物への憧れを心に秘めていることを独白する。「竹を割ったかのような気持ちの良い人になりたいが自分には到底そうできないだろう」という迷いは実に心当たりのあるもので、僕自身たびたび他人に打ち明けたりこのブログに書いたりしている問題なのである。その問題の解決案が明治時代の小説の中で示されていた。100年も前の時代の男から自分の卑屈さをこっぴどく叱られた気分だ。誰に相談しても要領を得なかった問いの答えが古き時代よりもたらされた。ありがたい。話が傍に逸れたが、つまりはキャラクターの設定が似ているので、大いに参考になったという話である。

ただ、そのまま虞美人草を書きうつすというわけではない。結末は大いに異なる。ロンドンに留学した経験もある漱石は『虞美人草』においてはシェイクスピアの戯曲を念頭に置いている節が随所に見受けられ、フィナーレではもちろん主要な登場人物が勢揃いし、それぞれがそれぞれの運命に帰着する。またしても余談だが、漱石とおなじく作中でシェイクスピアへの言及が甚だ多いヴォネガットはもちろんのこと、彼の教え子であるジョン・アーヴィングの小説でも主要な登場人物が最後にパーティーなんかで勢揃いする事が多い。アーヴィングのそれなんかは特に効果的に使われており、ときに涙が流れるほどに素敵で大好きなのだが、僕が計画している作品のフィナーレは真逆である。僕の話のオチは不条理劇から影響を受けている。これは漱石没後二つの世界大戦が起きた時代の作風なので、神のいた時代よりももっと懐疑的で空虚なものだ。大団円とは逆に登場人物が主人公の周囲から1人また1人と去っていくのである。僕の書く詩人は自ら世界と自分とを切り離して生きてきた罪に対する罰を受けるのである。こののちに待つ全ては空虚であると信じたとき、人は自ら死を選ぶ。

漱石の『虞美人草』に出てくる詩人も、物語の終盤に諭される「真面目に生きろ」という説教を受け入れて心変わりしなければ僕の書く戯曲の詩人と同じ運命に至るであろう。僕は『虞美人草』を読みながら、この小野という詩人は物語の途中で自殺するだろうとずっと考えていた。だがそうではなかった。僕の書く詩人は人との交わりが全て消滅してしまった後に、絶大なる虚無に襲われながら「死か書くか」というところまで追い詰められるのである。この詩人は己の頭も才能も空っぽであることを知りつつ、夏休み最後の日の子供のように泣きながら机に向かっているところで幕となるのだが、遅かれ早かれ自分で死んでしまうだろうと思う。この時代において人を引き寄せられない詩人は詩で食っていくことはできない。手に職があるわけでもないし、職場の人間関係を上手くこなすこともできない。単調な仕事に耐えるだけ真面目に生きてもいない。要するに生きていけないのである。蟻地獄の底に待つ死へと彼は滑り込んでいくだろう。

その弱い人間の生き様を僕は表現したい。だから僕は書かなくてはいけない。善とか悪とかそんなものはこの物語には存在しない。

活動記録

昨日のこと。

休み希望を断られたので働いた。働けないほど体調が悪いわけではなかったのでさほど苦ではなかった。

Sは機嫌良く振る舞っていた。ぼくは誰よりも早く仕事を終えたので、とりあえずの体面を保つことができた。

仕事が終わり二階の自分の部屋に戻ろうとするとTがぼくを手招きした。キッチンでダラダラと話をした。外出しようと誘われるがままにスーパーに行き、スイカとパイナップルとオレンジジュースを買った。この地はひどく乾燥しているので、日本で食うよりスイカが美味い。

帰ってきて、風呂に入って本を読んでいるとTがipadを借りに来た。そのまま部屋でわぁとかおおとか言いながらネットフリックスでドラマを見ていた。見終わると帰っていったのでぼくはそのまま本を読んで眠った。

他人の発言で印象的なものをもっと書き残しておかなければと思う。スマホは顔認証などが面倒だ。やはりペンとメモ帳を携帯するのがいいだろうか。

ワイヤレスイヤホンの調子が悪くどの機器にも接続できない。

言いたいことが何もないのなら、何かを書けるはずがない。

活動記録

戸を叩く音で目を覚ました。この前朝に10杯もコーヒーを飲んで仕事を休んだマディが僕に大丈夫?とドア越しに呼びかける。要するに僕は寝坊した。15分くらいの遅れ。呼吸器や咽頭に違和感はなかったけれど具合が悪いということははっきりとわかった。まあそれでもすぐに着替えて下に降りた。みんなに軽く謝ってから仕事に加わった。ただ、最初の数分は集中力がまとまらないまま目やにも取らないままに突っ立っていた。みんなに疲れているよねと言われる。理由はなんだかわからない。別に明け方まで小説を書いているわけでもない。

ダブルワークはしているけれど、同じことをやっているTは元気そうだ。ただ最近僕は1人でいる時間は減ったし、仕事後も休まずに出かけたりするようになった。この疲れはずっと心のどこかに書かなければという思いを抱えていたり人に気を使いすぎていることによる心因性のものなのか、標高1300メートル超という高山環境に適していないのか、鼻詰まりが酷いからなのか、実家にいた頃にダラダラ楽な塾講師の仕事だけして遊んで暮らしていたからなのか、理由なんて名探偵コナンみたいにはっきりひとつと言えないが、どこにいてもくつろげない心苦しさは確かにある。仕事中も軽い忘れ物を多くしたり、まるで早発性痴呆のようにふやけきっていた。ミスがあり、オーナーの1人であるSというおばさんにどうしてお前だけいつも仕事が遅いのかとなじられた。理由なんてコナンみたいにはっきりひとつと言えないから、ちっさなおばさんを見下ろしながら、ただわからないとだけ答えた。おばさんは寝るのが遅いんだろうと断言した。ただ、ぼく自身ももっと眠りたかったので仕事を終え、できるだけたくさんのご飯を食べてから眠った。目覚めると8時くらいになっていて、ぼくはカートヴォネガットの『青ひげ』を読み進めた。主題とは異なるが主人公が少年だった頃、男が放出しなかった精液は万能のビタミン剤となって、芸術家にとって必要な想像力や活力を与えると信じていて、その小説の中では現にそれは事実だったと老年の主人公が述懐していた。ぼくはあまりにも信じやすく単純なので、全く科学的根拠や事実証言に基づかないこの理論を実践してみようと思っている。

夜になってTが映画を見たいということでipadを借りにきた。ぼくはLINEやSNSを削除してから渡し、その後姉歯建築士のことや堀江メール事件なんかを思い出したので彼らのその後や中学生当時分からなかった事件の詳細などを検索したりした。

よく眠ったからか、気力は復活し、気分も前向きだ。ただの夜型なのかもしれないが。書いているときはやっぱり面白い。

あまりポジティブな文脈からではないのだが青ひげの一節をここに。「ヘロインの注射ぐらい強力で無責任なものを発見したーーー巨大なカンヴァスにたった一色の絵具を塗り始めるだけで、まわりの世界がどこかへ飛び去ってしまうのだ。」