宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

行け行け行けと鳥は言う

いま、ぼくは再びSFにハマっている。そのきっかけとなったのは『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』だ。ディックの前に読んでいたのが『アデン・アラビア』で、カナダに旅立つ日が近づいてくるぼくの境遇や心境にわかりやすいほどマッチしていたから、このまま『路上』や『夜の果てへの旅』などを読み返すだろうなと思っていたのだけれど意外にも今手元にあるのは『危険なヴィジョン』だ。『パーマー・エルドリッチ』はもう少し日を置いてからまた読み返すつもりだ。彼の長編は再読するごとに新たな気付きとさらなる没入が必ずもたらされる。一度だけではなかなか明白にこの面白さを説明できない。言語によるトリップ感の表現に酔いつつも、うまくいかなかった過去の結婚に執心している未来予知能力者の孤独に心当たりがあったり、日常現実の辛さや退屈からの逃避とその手段を提供して富む大企業、化学による人間の進化と選民思想、現にいまも目指されている地球以外の惑星への重工業の移転、いまこうして思い出してみるだけても面白い要素はたくさんある。思い出そうとうんうん考えているうちに、そもそも何の話をしたかったのか忘れてしまった。この馬鹿め。ともかく、これだけは面白い小説に出会える喜びは心に空虚の穴も開ける。

もうカナダへ行こうと思えば明日にだって発てるのに、実際の出発はあと2ヶ月も先のことだ。もちろん、そのブランクをただの空白にしてはいけない。成田の保安検査場を通る前に英語をどれだけ詰め込めるのかは、その後の一年を大きく左右することになるだろうし、これまでのあらゆる保留にもケリをつけておきたい。タブをいくつも開いたまま放置しているとpcのパフォーマンスは落ちる。やるやると言いつついつまでも腰を上げないあの苦味をぼくはもう二度と味わいたくはないのだ。そして今こうして再び日々の所感を書くことにしたことも渡加に向けた準備の一つだ。

youtube太宰治に関するNHKの番組を観た。ぼくは彼のように仕事熱心になれるのだろうか?それほどに書くことが好きなのだろうか?

2月が近くなってきて、少し寒さも和らいできた。屈まっていた魂も徐々に雪解けてゆくのを感じている。だからなのか、僕は再び夜眠らなくなった。

目の下のくまができる部分に終始重さを感じているが、これがまた心地よいのだ。

僕はこういった雑文に手を付けるとき、書き出しの文章が思い浮かんだら書き始め、後は勢いと運に任せる思いで後続の文がなんとか繋がれば完成する。ひとつの文章を植物に例えるならばたいていは土から芽を出すどころか種が発芽しないままにすぐ潰えてしまう。不勉強ゆえに栄養も十分にないし勤勉でなく根気もないからすこしの環境の変化で死ぬことになる。仮にうまく育ったとしても、御覧の通り美しくもない。

時間をかけて何か書く以上、せめて何か面白いものにしたいと思っている。だからオチが思い浮かぶまでは書くまいと決心した。なのにどうしてオチが決まらないままに両手をキーボードの上でバタバタさせているのだろうか。

素人がやる即興のラップみたいに中身がない。自分を攻撃するのは楽だ。他人と反目すしあうリスクもなく、臆病さを克服しないまま好き放題に書くことができる。

いま僕の全神経系を刺激しているこの眠たさが心地いい。

ああ、僕は保身のための逃げ口上を言わない人になりたい。

逃げ口上は巧妙なんだ。他人からの低調な評価から自分を守るだけじゃない。自分が自分に絶望しないように、人は先回りして言い訳をする。

僕が自分をけなすのは、すべて逃げ口上なのだ。

まあ、いい。

話のオチすら作れないので僕は寝落ちすることにする

冬を過ごす

冬は寒いからどうにもいけない。気取った口調で当たり前のことを言うのは馬鹿みたいだが、本音をそのまま表現した結果であるのだから仕方がない。

僕はこの冬なんにもしていない。そう、察しの良い方ははやくもお気づきであろうが、今回の僕は自分の怠惰さの原因を寒さに転嫁することに決めたのだ。部屋は荒れていく一方だし、創作においては書き溜めていたイメージですらどこかへ飛んで行ってしまった。働かず、家から滅多に出ない期間ですらもう少し活動的であったはずだが、今はもう白身魚のように床に伏せってじっとしている。

ボードレールの『パリの憂鬱』を読み始めたのだが、これはとてもいい本だ。すごく読みやすいし、この詩の語り口は僕にとって新鮮で面白い。カフカニーチェやエリオットらと引き比べても、彼らにはない独特で洒脱なエスプリが全面に感じられる。ボードレールも間違いなく孤独な男なのだろうが、どこか余裕や明るさがある。だから、彼に怠惰で放逸な魂と呼ばれようと、誰もが浮かれ騒ぐ祭りの街で、その喧噪や明かりから取り残された老いた大道芸人を自分と重ね合わせてしまっても、さほどの悲しみや痛みに捉われることなく読むことができる。孤独や絶望を語ったり描く作家を僕は好んでいるが、ボードレールはユーモアの面で他と一線を画しているようだ。言葉から怒りをあまり感じない。『悪の華』はどうだろうか。

久しぶりに文章をこれだけ書いた。そんなことができたのも、夜のうちに風呂に入ったからだ。普段は働きに出る寸前に入る。この家は木造で、なおかつエアコンがない。僕には変温動物の気持ちがわかる。シャワーで体が温まると活力が湧いてくる。

 

ああ、クソみたいな脳みそ、クソみたいな生活、クソな文章。

情調(ムード)オルガン ナンバー670

バイトを終えて家へ帰る。

グループラインはぼく以外のメンバーで楽しそうに進行していく。

特に言いたいことはないから口を挟まないでいる。

カナダに行きたい気持ちがつのる。

塾講師のアルバイトは楽しい。全く稼ぎにならないけれど、働いて抑鬱的な気分にならないのは初めてのことだ。英語力もずいぶん上がった。

いい仕事だと思う。同僚からサボってるとか仕事が遅いとか言われることもないし、客に嘘つく仕事でもない。

ぼくはこの時代に20世紀型のメランコリーを有している数少ないひねくれ者だ。

自分がひねくれているのは昔から知っていた。だからこそ、異物なりに道化の役割を演じることで市井に居場所を確保していたのだが、そいつはもうやめてしまった。

それでこれからどうするか。

ぼくは特定の宗教を信仰していない。3大宗教のそれぞれの経典さえ読んでいないから、それらが僕の苦しみを救ってくれるかどうかは謎だ。小説を読んでいるとキリスト教の引用や言及を目にすることが多いので、ある程度かいつまんでは知っているくらいか。無教養なのだ。でも、SF作家がでっち上げたある宗教に強く共感を覚えている。もちろん、サ〇エン〇ロジーのことではなくて、P.K.ディックが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で登場させたマーサ―教とK.ヴォネガットが『猫のゆりかご』で書いたボコノン教のことだ。詳細の説明は省くけれど、周囲に迎合したくないという歪んだ願望を持ったまま、寂しさに押しつぶされないためには、どう考えればいいか、なんとなくわかった気がする。

他人は地獄だと呼んだサルトルでさえ、その考えを終生持ち続けていたわけではないのだ。

それでも孤独を感じる。ぼくは共感(エンパシー)ボックスを持っていないから、こういう時どうすればいいのだろう。小説はすこしだけそれに似ているような気がする。

いつか世界と折り合いがつくまで、歩き続けるほかはない

堕落すらできない者の繰り言

苦しみがつのって耐えられなくなったら、ただちに前進することだ。(ヘルマンヘッセ『地獄は克服できる』岡田朝雄訳 草思社刊)

怖くなってきた

書かないでいることに

雑音と雑念が締まりのないジャムを奏でているまま画面に向かう、そんな状態でキーボードを打っても、手習い以下の雑文しか生まれない。

そういう端切ればかりが下書きに溜まっていく。

ブログ記事さえ満足に書き上げられないまま何日も何日も何日も過ぎた。

衛星軌道に身を委ねてやんわりふんわり死の周辺を漂っていた。

突如稲光がして目が覚めた。ぼくは怖くなった。

すかさず耳にスポンジを突っ込んだ。近すぎて明るすぎるPC画面のせいで目がチカチカする。失明したら本が読めなくなってしまう。それだけは嫌だ。

小学生の頃、床に寝転んで床材に流れる音を聞きながら考えたものだ。どの感覚器官を失うのがもっとも恐ろしいだろうかと。

ぼくは視覚だとすかさず結論付けた。目に見えるものをすべて奪われれば、世界を改めて認識しなおさなくてはならない。野球もゲームもできやしない。

だが今こうして30近くなって考える。あらゆる感覚器官から同時に伝わってくる膨大な情報をうまく処理できずにこれまで生きてきたということについて。

視界にあふれる物体や表情、折り重なる音の波、首筋を這う脚のタッチ、舌から伝わる彩色、鼻腔を満たす空気について僕はなんとなくに任せていた。失うことをあれだけ恐れていたのに、さほど大切にしてこなかった。

感覚の処理を自動運転モードにして、自動判別機械が重要だと提示してきたものにだけ関心を向け、そのほかの森羅万象をほったらかしにして生きてきたのだ。

人間関係だったり未来や過去についての思索にばかり気を向けていたから、自分の肉体を取り巻く現実世界をおざなりにしていたのである。要するに、あまりに概念的に生きてきたということだ。そしてその概念は突き詰められたものではなく、霧のようにまとまりがない。自分が幽霊のように感じられるのも、つまりそういうことだ。

今を生きるということは、そういった全感覚を手動運転で精査することではないかと思う。そして、今を生きなければ面白い小説なんて書けない。
何べんも何べんも何べんも書いているが、このブログはぼくのためのものだ。自分がモチベーションをあげるためのものだ。ここでは何を書いたっていい。法律を作ってるわけじゃないんだから。

現代は感覚を言語化する能力を涵養するための望ましい環境ではない。目の前の洛陽の美しさを自分の情動と絡めて留め、伝達する主要ツールはもはや言葉ではなくなってきている。李白はもうこの世にはいない。文学は徐々にオペラや歌舞伎のように、もとは大衆の娯楽だったものが鑑賞するための能力を訓練した愛好家だけのものになってきているように感じられる。

まあ、それはそれでいいのだろう。文学の影響がちいさくなっても、世界はそれなりにやっている。これまで人間が繰り返してきたみたいに首切り戦争は起こらないし、飢餓で村ごと死んでしまうこともない。サッコとヴァンゼッティは結局死んでしまったし、太宰治でさえ焼夷弾で家を焼かれる時代の作家なのだ。そしてSF小説ベトナム戦争を止められなかった。文学は嘆くことしかできないのだろうか?

トルストイの長編よりもCNNドキュメンタリーの1時間番組のほうが、よっぽど世界平和に貢献しているのかもしれない。

でもまあ、役に立たなくたって面白ければいい。ぼくだって世界平和の為に書きたいんじゃない。こうやって思ったことをずらずら書いて時間をつぶすのが好きなだけだ。

好きという割には随分サボってきたのだが。

戯言は今日はここまでだ。内容はどうでもいい。とにかく何か書いたのだから。さあ感覚を研ぎ澄ませて、いつもよりぬるいシャワーを浴びてみよう。

読み散らかしてる

ただ生きているだけだと、死にたくなるのはなぜだろう。

庭に生えている花だってただ水を吸って日光を受けてぼさっと風に揺られているだけなのに、なぜか僕より充実してる。

暗い気持ちで玄関から出ると外は晴れていて、蝶が花の周囲をまとわりついていたりなんかすると、昔のディズニーの気持ち悪いアニメーションみたいに植物どもがのびのび歌っているように見えてくる。

花なんて嫌いだ。あんなのおっぴろげた股だ。色とりどりの花びらだって派手なパンツと変わりゃしねえ。

そんなことはどうでもいい。

地元では誰とも会うことがない。バイトは申し訳程度に塾の講師を始めた。といっても月給で言えば4万円も稼いじゃいない。相変わらず自分は資本主義のゴミのままだ。

最近は暇さえあれば図書館へ行く。ロカンタンを気取ってノートやら本やらを机の上に散らかすためだ。読みたい本は借りて家に本を持って帰るなんてことはしない。家に持って帰れば読まなくなるからだ。家に買った本で読んでいないものがたくさんある。いま図書館で読んでいるのは『アデン・アラビア』と『神曲』だ。共通しているのは強烈なまでの怒りの感情。全部読んでいないけれど、20の著者がフランスのエリートコースから脱出し、南イエメンのヨーロッパ人コミューンに滞在し、やがてフランスに戻る旅をテーマにした話(パンフレ)と、30代男性が森で迷っていたら地獄めぐりツアーに出ることになって地獄煉獄を抜けて天国を訪れる話。正直持って帰って家で読みたい。家に持って帰れば読まなくなるというのはただの建前で、本当はごにょごにょごにょ。図書館はいい。読書に飽きてちょっと目を転じると奇兵隊の日記があって、ぱらぱらめくって脱走者の人相書きを眺めたりできるし、座り疲れたらセリーヌの全集がある棚まで散歩したりできる。こんな感じで読み散らかしている。

家で読んでいるのは『死よりも悪い運命』と『死をポケットに入れて』だ。前者はもうじき読み終わる。さっきもこれを読み終えてしまうかブログを書くか悩んだのだが、アウトプットもやっておかねばと、後回しにした。

kindleも使える。脚注はひと押しで表示されるし、傍線やメモも簡単に打ち込めて汚くなることはない。読書時間を計測していますと表示されるのは、没頭を邪魔されて腹が立つが。kindleでは角川文庫から出ている新訳のマクベスを読んでいる。脚注で結末をネタバレするのはどうかと思う。新訳で読みやすいからこっちは感情移入しつつ読んでいるのに、馬鹿野郎。

眠たいのでいろいろ端折る。

『アデンアラビア』のヨーロッパ批判の箇所で、ヨーロッパは東洋から伸びた芽に過ぎないと書いてあって(当時は『西洋の没落』とかありましたしな)、西洋思想にまみれて悲観的になっている自分は、昔熱中していた中国の思想にすがりたくなった。読みたいのは『貞観政要』、『史記』などなど。なぜぼくが東洋思想に走らなかったかと言えば、東洋思想版のマイケルサンデル的な案内役に出会えなかったからというのと、就活で役に立たなかったからだ。西洋思想寄りの脳みそになってしまった今、サリンジャーやP.K.ディックに倣って鈴木大拙に案内を依頼することにしようか?でもサリンジャーもディックも救われたような様子は見受けられないが、どうだろうか。

そんな潜在意識に導かれたのかどうかわからないが、弓道教室に通ってみることにした。週二回。

駄目です

面倒なことを山積させている。

今夜一気にやっちまおう、今夜中に終わったら明日は一日中ふざけていよう、なんてことを考えていた。

バカだった。つい先日ぼくは『風の便り』に感銘を受けたと書いたばかりだというのに。

「これを一つ書いたら、当分威張って怠けていいなんてふざけている」をそのまま実行している。

ぼくは馬鹿だ。たゆまず進む才能がない。

ああ、歩むように。歩むようにだ。眠くなるまでそろそろ書いて、起きたらまたそろそろやる。たったこれだけのことなのだが、、

夜になったらやるだろう。家に誰もいなくなったらやるだろう。飯を食ってひと眠りしたら最高の集中力でこなすだろう。

ぼくは馬鹿だ。やりゃしない。

己が馬鹿であることを知れただけでも御の字だ。

もう二時だ。