先週末は仕事が終わると古くからの友人三人と花火大会を冷やかしに行った。
かつて、子供のころ父親の傍に付き従ってここへ来たことが思い出される。
当時は、空中で轟く爆裂音と火花のあまりの大きさにすっかり肝を潰し、視線を覆いつくすような群衆にどこかへ流されてしまうのではないかと不安だった。
父親はそんな僕を時折気遣いながらも、僕が恐れおののいていた群衆、轟音、未知の場所、そして、いつ終わるとも知れない夜たちに、まるで見知った友であるかのような親しみの目を向け、楽しんでいた。
かつて、父親は僕にとっての全てだったということが思い出される。
父親は僕にとっての世界の案内人だった。
車の助手席に僕を座らせ、赤いコーラのロング缶を回し飲みしながら、いろんなことを話した。人への優しさの大切さのほかに、歴史や経済なんかの話が多かったと思う。
その点では父親は決して僕を子ども扱いしなかった。
父親は、僕がフィルターなしでこの世界を生きられるようにと願いながら僕を育ててくれた。
僕らが乗る車には、ある時は釣り竿とクーラーボックス、ある時は少年野球の試合道具、ある時は本とカメラなんかが積み込まれていて、透明な朝日や真昼の薄い色した月やいつまでも赤い夕陽なんかがそれらを覗き込んでいた。
そして、ここまで僕は生きてこられた。今では僕は気心知った友人と白けた田舎の花火大会にふらりと立ち寄るし、今では僕は一人でバイクに乗るようになった。
父親はいずれ死ぬ。その息子である僕もいずれ死ぬ。
そんなことは確証はないけど分かっていることだ。
ただその前に、父親を取り巻く「世界」で最も近くに住み続けてきた小さな隣人である僕から父親へのささやかなプレゼントをしてやりたいと思う。
世界の美しさをもう一度思い出してほしい。この世界でよかったと、自分の人生は間違っていなかったと、そう思わせてやりたいのだ。
そのために僕が贈ってやりたいものはもう決めている。
それは父親に案内されて仲間入りしたこの世界で僕が見てきたもの、考えたこと、聞いたこと。
きっと捧げられると信じている。