観たい映画がありすぎる。
読みたい本は当然のこと沢山ある。
ただ耽っていたい音楽がある。
演劇や落語や土着の祭り舞踊なんかの熱狂に包まれたい。
言語や物理なんかについて学びたい。ひたすらに勉強をしたい。
バイクに乗って冷えた空気の待っている路上へと行きたい。
考えることはいっぱいある。思索の世界は居心地がいい。
今、こんな風に駄文を書き連ねていたい。
これらは、今の僕が欲して止まない、最高級の快楽の類。
次点は
沢山眠りたい。できればとっても質のいい眠りを迎えたい。
女の子と一緒にいたい。
美味いものを食べたい。
会心のジョークを放って笑い転げたい。
スポーツがしたい。
一応は安心できるだけの収入を得たい。
納得できる理由で誰かに称賛されたい。
ざっと挙げてみるとこんな感じ。
どれも本当にやりたいことだけれども、前者と後者ではやっぱり何かが違うのだ。
なんとなく違いを言い表せそうな感じは多少するが、メモ書き程度で留め置く。
小学生の頃父親の書棚から勝手に取って読んだ事があるが、最後まで読む事は叶わなかった。
改めて読み始めたきっかけは、気まぐれのはずだった。
今僕は宇部市から防府市まで通って仕事をしている。道中、毎日鋳銭司を通り、三田尻へと抜ける。そして、僕はじきに東京へと行く。
思えば、それが理由かもしれない。
司馬遼太郎の書く文章は、読む者をしたたかに酔わせる。僕は先ほど、「花神」という名の一本の酒を空にしたところだ。読後感だけはなんともまぁアッサリしたものだったが、作中では相変わらず癖のある文体だし、人物の心理をあまり注意深く慮ることはなく、時折暴力的な解釈ももちろん出てくる。が、それらの特徴に、膨大な資料の読み込みと、新聞記者であった自身の経験などを加えて作り出した人物像は、ものすごく度数が強く、同時に魅力的なキャラクターとなって登場する。
司馬さんが大村益次郎や秋山好古の人生に見い出して、作り出した、強烈なストイックさを持つキャラクターたちのエネルギーに僕はいつまでも酩酊しているのだ。