宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

私見では

音楽を聴くなら、音量は大きくなけりゃつまらない。

youtubeにアップされたアーティストの動画なんかを再生して、スマホのスピーカーでちょろっと聞くだけなんて、

ノートルダム大聖堂を尖塔の先っちょだけが見えてて他は砂に埋まってしまってる状態。

仁和寺の下層だけ行って帰ってしまった法師と一緒。

木を見ているようで枝を見ず葉も見ず森も見ず。

みたいな感じだ。

試しに音量を上げてみるとこれまで聞こえてこなかった息遣いやカッティングギター、ピアノ、ベース、パーカッションの音色がどこからか姿を現し、

実はそれぞれの役割を課せられた職人たちが一つのリズムを基準に、一つの曲を作るために仕事をしていることが分かってくる。

そしてやっと曲全体の輪郭が見えてきて、その曲を細部までたんまりと鑑賞することが叶うのだ。

音楽と建築はその製作におけるプロセスにおいて繋がっているのかもしれないってのは余談。

要は、この音楽鑑賞の例のように、これまでなんとなく取りこぼしていた感動が他にもあるのではないかと思うということだ。

飯を食う時に、その食材の調理過程や、味を構成する調味料や、その素材まで知覚するとか。

小説なら、描かれている場面をいちいち絵に書けるくらいセンテンスを読み込んで想像するとか。

エロビデオを早送りせずに、女の子の、素の性格が出てしまう一瞬の表情や仕草を見逃さなかったりだとか。

萩焼のお茶碗にかかった釉薬の垂れ固まり方を楽しむとか、世界には無限にいろいろあると思う。

1つのものを知識や概念的なうわべことだけで理解したつもりになって満足して終わらせず、

一旦先入観的なものを取っ払って、実存的に徹底的に知ろうとすると、なかなか面白いのではないだろうか。

以下は蛇足なんだけど、

皆もそれを試してみたり既にやっていて得られたものを、そしてどう楽しかったかというのを僕や周りの人に教えてあげて欲しい。

それを積み重ね、本当の知覚や想像の歓びを大切にする仲間を作れれば、知識量だけの人間からの「これ知ってる?」マウントも、知らないことへの罪悪感も虚飾も意味が無くなるかもね。

ただ自分がこれが面白い、好きだという喜びを感じながら、他者との興味の違いを当たり前だと尊重し、互いに敬意を払えるような世界がいいね。