宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

ネイキッドランチ

満たされない欲求を、ぶらぶら提げて街を歩く。

いつからセックスしてなかったっけな、と、コンビニの前を通り過ぎながら考える。

今年に入って今日までの回数だけならハッキリ分かる。2回である。

実際に行為に至った2回に対して、性的欲求を刺激する表現には毎日、至る所で出くわす。そのアンバランスさに、僕はすっかり参ってしまっている。

 

先日他界した、その痛快さ、卓越した表現、生き方と作品との一貫性に於いて僕が最も信頼している作家のうちの1人であるハーラン・エリスンの短編集が今年、早川文庫より訳され発売された。題して『愛なんてセックスの書き間違い』である。

なんともまぁ。

 

この世界で暮らして来て、知らない方が良かったことというものはいくつかあると実感しているが、いの一番に愛、いや、セックスは挙げられる。

時折、僕のやることなすことは全て、セックスの為なのではないかと思うことすらあるのである。そんな時、ローションの詰まったコンドームに両脚を突っ込んだような何とも言えない嫌な心持ちに苛まれる。

 

「人間は生殖器に支配されている」という言葉がある。その言葉との出会いは、なんとなく閲覧していたウェブページで、とっくに死んでいるであろう西洋の男の古い肖像画と共に名言として紹介されていた。

その男の名前や生国すら失念してしまったが、彼の死因は人間存在の真実を暴いてしまったからであることに疑いの余地はない。心からの同情とお悔やみを申し上げる。

 

さて、お次は安部公房。1971年に中央公論社から出されたエッセイ集『内なる辺境』

この本の中で性行為については書かれていないが、こじ付けたい記述がある。収録作である「異端のパスポート」の序盤で、人間の祖先は肉食という特異性を持った異端の猿であることを説明した後、以下のように述べている。この本は手元にあるので引用できる。

 

孤猿という言葉がある。いかにも超俗的な、もっともらしい響きを感じさせるが、その実体は要するに心ならずも群を追われた、落伍猿というにすぎないらしい。人間にとって、牢獄がそれ自身刑罰であるのと同様、猿にとっても、拘禁と隔離が、もっともひどい神経症の原因であるそうだ。群をつくる種族という点では、肉食の子孫も、草食の子孫も、大した変わりはなさそうである

 

どうだろうか。

我々人間は、自分たちが他の種族より高等な生物であると考えがちだ。

確かに、地球に存在する他の生物のほぼ全ての生殺与奪をその手に握っているただ唯一の存在であるような気がする。

しかし、生身の人間単体では一頭の熊すら殺せないし、ビーバーや蛇にさえも決死の覚悟で立ち向かわなければならない。

(僕の満たされぬ性欲の悲哀についての話から大きく脱線してゆくように感じられるだろうが、そんなことはない。ブーメランのような軌道を辿っているだけである!)

ええっと、つまり、我々人間という種族は、強力で広範な社会を形成しており、その産物である道具や知識を身につけてはいるが、身ぐるみを剥いでしまえば、群れに生きる肉食の猿としての本質しか残らないと言うことである。

個人の悩みや苦しみや喜びなんてものは、動物園やテレビを通して見たことがある、あの草食の猿たちとそう大して変わらないのだ。温泉に入れば気持ちが良いし、危害を与えてくる恐れのない相手から頭を撫でられて毛繕いをされると嬉しくなるのも同じであろう。

そう、ここで、僕の曲がった陰茎、もといブーメランは再び僕の手元に収まるのである。

今の僕のこの欲求不満は、若きオスの個体の持つ悩みなのである。ナショナルジオグラフィックに取り上げられて、お茶の間のなんとなしの同情を引くような身の上なのである。

しかしなんともまぁ。なんとも言えんね。