演劇の脚本を書くことになった。
来年の1月に新宿で公演。場所はもう確保してある。
期限は今日。ホンはまだできていない。
1週間くらい前、地元で働いているぼくの姉に電話でこのことを伝えた。
彼女は開口一番「おめでとう、でも、逃げるなよ」と言った。
ぼくは「大丈夫」と急いで答えた。そして(よくお分かりで)と思った。
彼女はぼくのことを長い間見つめてきた人だ。
ぼくは世間一般で言うところの責任感というものが欠落しているのかもしれない。
合理的に生きていくうえでどれだけ重要な局面であろうと、ぼくは逃げるというか、無視するというか、先延ばしにするというか、考えないようにするというか、そんなことを繰り返して生きてきた。
そんなぼくを、3つ年の離れたぼくの姉は長い間見つめてきた。
ぼくもまた、彼女のことを見つめ返してきた。
今、彼女は悩んでいる。退職して彼女にとって未知なる海外へと身を投じるか、慰留案として会社から提示された希望の職種と勤務地への人事異動という条件を受けるかという、枝分かれした川の分流点で。
彼女は、どちらを選んだにせよ周囲からの期待に応えようと苦悩し、エネルギーを限界まで使い果たし、そのせいで身体の至る所に不調が起こり始めて壊れ始めたエンジンのようになっても、彼女は決して鼓動を止めずに頑張り続けることだろう。そしていずれ信頼と安らぎに満たされた海域へとたどり着き、彼女もそのことを心から喜び、きっとその場所で幸せになるだろう。
一方ぼくは路上を転がり、ふわふわと浮き上がり墜落し、泥にまみれ、水と一つになることもできず、漂い続けるビニール袋だ。
誰からも一顧だにされない使用済みの穴の開いたスーパーマーケットの半透明な袋だ。
1つの場所で踏ん張りを効かせることもできない。あまり重いものを入れると千切れてしまう。
自分自身を、忘れられたビニール袋だと考えるといささか気持ちが楽になる。
無価値であるからどこへでも行けた。風に押され、流れに乗ってふわふわと。
だからこそぼくは、いざとなると逃げるというか、無視するというか、先延ばしにするというか、考えないようにするというか、そんなことを繰り返して生きてきた。
しかしずっとこのままなら、カサカサして節くれだった街路樹の枝先に串刺しになるようにしてぼくの冒険は終わってしまうだろう。
悲しさ、悲しさ、悲しさ。死に至る病、それは・・・。
ぼくはぼく自身の手で絶望孤独不安から救われようともしていない。
他人や世界や環境が僕を作り、利用し、後ろ手に路上へ捨てたのだと世を拗ねている。
自分の運命をこの手で掴んでいる事実を否定しているのだ。
優しさとはなんですか?
考えているようで、考えていない。
生きているようで、生きていない。
欲しがっているようで、欲しがっていない。
自力で心のフィルターを剥ぎ取って、ぼくが望む本物の人生を手に入れる為には
多少なりとも血の代償が必要となる。
血を恐れるな、他者を怖がるな。他者を怖がるな。他者を怖がるな。
ぼくは書いて、書くことで、この世を面白がって生きてゆきたい。
今日もやらねば、明日も鼓動を続けなければ。