博多バスセンターの地下にある、喫煙可の喫茶店カウンターにて
人生について
人は、生きているその限りにおいて、決して、どこにも到達することは出来ない。
成功など、到着地など、永遠の安寧が保証された極楽浄土など、この現世には存在し得ないのである。
近づいたと思っても蜃気楼のように立ち消えてしまうのであれば、我々は永久に歩みを止めることなどできないのかもしれない。映画のような終わりなどは生きている人間には有り得ない。
映画を撮り終わった監督は思った。さて、その次は?
到着地はなく、無限の出発点だけがあるだけだ。
どこへ行こう?
いま、自分にとっての空虚とは、欠乏とは、不在とは何か具体的に考えることだ。
あなたは何を欲している?
僕にとっての欠乏の対象と、あなたがいま足りていないと感じている対象は同じではないはずだ。
そして、僕自身の中でも、状況、考え共に刻々と時間とともに変化してきたし、これからもきっとそうだろう。
ゆえに、人それぞれ生きる理由など同じであるはずがない。
僕とあなたは、ただ、歩みを止めることができないというその絶望的な状況のみが共通しているだけなのだ。
つまりは諦めることだ。他者という別の存在と道を同じくすることを。
それを欲してはいけない。求めてはいけない。不可能だから。
僕は福岡に行くことを計画していて、そこに着いた。さて、その次は?
結婚式で友人たちに会うことをずっと楽しみにしてきて、その時間も過ぎ去った。さて、その次は?
結婚式に向けてずっと準備を重ねてきて、それを無事に終えた友人は力なく言った。「結婚式ロスだ」さて、その次は?
仕事を辞めて福岡から上京すると言っているある人は引っ越しを終えて、東京の新居に座り込んだとき、果たしてどう思うだろう。きっとこう思うのではないだろうか。さて、その次は?
人は死の他に歩みを止めることができるのであろうか。何も求めないということが果たして可能なのであろうか。一般に成功者と呼ばれる人びとは皆安寧の地に無条件で住み続けられ、何も求めることはないなんてどうして考えられるだろう。ベルトコンベアーに乗る人々は、どこへ向かうのであろうか。そもそも、この世にベルトコンベアーなんてあるのだろうか。結局それは、どこかへ運ばれていると思い込みながらも自分の足で歩いているだけなのではないだろうか。