宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

温泉

七時過ぎに姉の家で目が覚めた。

猫の毛でムズムズした鼻を啜り上げながら朝食の支度をしつつ、石丸謙二郎がパーソナリティの登山家向けのラジオを聴いていた。

石丸謙二郎がどこかの山小屋の主人に電話をかけ、朝からいかにも明朗な声でしゃべりあっている。

すると近くに住んでいる母が訪ねてきて、起きてきた姉を含めて三人で少し話をした。

飯を食い、僕は眠たくなったので、また猫を抱いて寝た。

再び目がさめると十時を過ぎていた。姉は出勤の準備を始めていた。

三人でNHKの健康番組を見た。自律神経を整えるために有効な寝る前のストレッチをいくつか紹介していた。

母はそれを真似しながら何か言っていた。温泉に行きたいと僕は言った。

姉は一緒に行きたかったとぶつくさ言いながら化粧をしていて、母は僕を連れて行ってくれると言った。

姉の住む家から山口市の温泉街である湯田温泉までは車で10分くらいだ。

昔から僕が好きなある旅館の温泉に行くことになった。その旅館は最近、宿泊客の貴重品をサービス係が盗んだとかで話題になっていたが、僕は泊まったことはない。

到着したのは十一時を過ぎた頃で、開店直後だった為にほとんど他の客は居なかった。

がらがらの脱衣所で鏡と向き合った。自分の髪は長過ぎるし、顔には生気がないと思った。

僕はさっと鏡から顔を背け、浴室に入った。先客は一人、僕よりも痩せていて気の弱そうな男が入念に髪を洗っていた。

僕は斜め後ろに座る彼のことを鏡越しに見ながら、自分の長すぎる髪にトリートメントを塗ったくった。

全身を洗い終わり、入浴しようと立ち上がった時も未だに気の弱そうな男は泡にまみれていて、神経質に顔を剃っていた。

僕は内風呂の一番大きな無人の浴槽にざぶんと入って顎まで浸かった。

腰も痛いし肩も凝り固まっているこの身体が、少しでも解きほぐれるように願いながら、今朝テレビで見た自律神経を整えるストレッチをした。

やがて更衣室からずらずらと、よく日焼けした大樽みたいな身体をした、スポーツ科の大学生風の若者が十五人くらい入ってきた。

僕の胴回りほどもありそうな太腿を見て、これはラグビー部だろうなと思った。

彼らの笑い声はまるで雷鳴の轟か重砲の咆哮のようで内風呂の内壁を破裂させんばかりだった。

これには堪らんと思ったが、今日は長風呂をすると決め込んでいたので、馬耳東風と受け流した。

それにしても彼らの肉体はみな一様に逞しいが、ポジションごとの特性でもあるのだろうか、それぞれ筋肉のつき方が異なるように見えた。

比較的小柄な者は贅肉のない、ギリシャヘラクレス像のごとき精悍な肉体で、いかにも俊敏そうだった。

集団の中で特に大柄な者は、そもそも筋肉か贅肉かの見分けもつかないような、相撲取りをもう少し引き締めたような体躯をしており、四肢それぞれが1つの樽のようだった。

彼らを眺めていると、何年も全力疾走などしていない僕ら文弱仲間同士で、ちょっと痩せて筋肉がついてきただの、筋トレ始めてみただのと、目くそ鼻くそ同士で誇り合っているむなしいやり取りを、もし彼らに聞かれようものなら、なんと滑稽だと笑われてしまうだろうと恥ずかしく思った。

彼らは、彼らの目指す勝利や名誉や社会的成功のための努力の成果、地道な積み重ねの結果が肉体に現れている。

果たして僕は一体何を積み重ねてきたのだろう。少し焦った。が、きっとこうして書き続けること、暇さえあれば読み続けることを止めないこと。

そうすれば、僕がひとつひとつ積み上げてきた目には見えない石たちは受け答えや考え方、態度、さらには何か作品として表出するはずなのだ。

風呂の中で、何かきっかけがあれば、彼らと話してみたかったのだが、僕がずっと浸かっていた内風呂の一番大きな浴槽には誰一人として入って来なかった。

なんとも寂しい心地だった。彼らには一体、僕がどんな風に見えただろうか。

僕より痩せた神経質そうな男はいつの間にかいなくなっていた。