風呂から上がって、今はycamの隣にある山口市立中央図書館に居る。
はっきり言って幸福である。足りないものは何もない。強いて言えば時間が足りない。
棚の前を歩けば、小脇に抱えた本が瞬く間に増えてゆく。
今机上にあるだけでも、文芸雑誌、演劇についての本が数冊、SF大百科事典、フランス哲学思想事典…
建築や食文化や歴史の本などの棚も見たいが、きりがない。
読みたい本は増える一方で、それらを余さず買いたい本リストに書き殴る。
正直、人の広がりの面を除けば、僕のやりたいことは山口県でも用が済む。それを改めて思い知った。
今やっているアルバイトは早々に辞めて、もっとこうして図書館に籠る時間を増やす必要がある。そんなことを思っている。
もっともっとオタクでなければ僕の言うことの価値は高まらない気がする。
今興味あることのひとつに、鴨長明と吉田兼好がある。それぞれ、方丈記と徒然草などを書いた文人である。他にも、西行や、時代は下って井原西鶴にも気を引かれてる。つまり、西洋の影響を受ける前の日本文学である。
西鶴を除く三者は、野にあって庵を結び書物を著しており、そのスタイルに魅力を感じている。僕はこれまでも作家の作品と実人生との関連性というテーマを意図せぬままに研究してきた節がある。
この前、ラジオで徒然草は枕草子と源氏物語の影響を非常に強く受けているという話を聞いた。
作中での言及や内容をオマージュした箇所も見受けられるとのこと。
知っての通り枕草子は批評文学の源流であり、源氏物語は物語の文学の祖である。
後世の日本人は皆、文学に関して、この貴族の気骨ある女性の著した作品の影響を受けてきた。
僕も、国語の授業などでやんわりと感じさせられてきた文学というものへの勘違いからくる固定概念的なイメージがあった。
それは、文章を書くにあたって、これら二作や百人一首などの詩歌の持つ華麗さや感覚的で柔らかな物言いこそが唯一無二の正解で、思うままの言葉で好きなことを書くことは間違いだというイメージだった。
この思い込みから脱するのには苦労した。SFを読み、20世紀の激動の時代の西洋文学や哲学に触れ、アメリカの大衆小説を経て自由についての考えを持ち、よし、日本の小説に挑戦しよう、と明治以降の日本文学を読み始めることで、ようやく己の偏見が改まってきたのだ。
ただ、いくら蝶の様に美しく舞っても、蜂の様に刺すところがないと、僕には全く面白く感じられない。現代日本の芸人やアイドルなどがスーツを着た大人に勧められるがままに書いた大衆小説なんかは、バッタではないかと思う。
余談が過ぎた。
閉館まで粘って本を読む。