宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

文無しの孤独者

昨日の話はやめだ。今日のことだけ書いて、さっさと芝居を書かねば。

お腹が減ってきたが所持金が帰りの電車賃分しかないので宿のコーヒーを飲んでいる。

 

昼間は港の公園に寄って県立博物館へ行き、例のオムライスを食べた。

そうすると現金がほとんどなくなったのでコンビニに行きクレジットカードでお金を下ろそうと思ったが限度額を超過しているとかでATMからカードを突き返されただけだった。

半ば青ざめ、半ば苦笑しつつも、数百円くらいは取引限度額内だろうとブックオフに行った。

ケルアックの『孤独な旅人』を見つけたので買って、ケルアック自身が書いた序文を読みながらホテルに帰った。

ほぼ彼の自己紹介的なことが書いてあるその中で、「書くことをこの世の自分の義務だとつねに考えた」という一文を読んで僕は心を引き締め、それに続く「宇宙のやさしさの説教を義務だと考えた」という所からは、『路上』でも、自然や人間を恨みや脅威の対象としては描かれていなかったなと思った。

僕がアメリカを旅した時、巨大な渓谷や無音の砂漠、延々と連なるサボテンや青々しい乾いた空に母性を感じて安らぎを覚えたのも、出会った人々に優しさと寂しさを感じて嬉しくなったのも、僕が渡米前に『路上』を読んでいて、ケルアックの説教を真に受けた若者の1人であったからであろうか。

ホテルに帰って風呂に入り、福沢諭吉の伝記的な本を読み進めた後、『学問のすすめ』を青空文庫で読んだ。昨日、僕は、キリギリスみたいな僕の生活を福澤諭吉は快くは思わないだろうなぁと書いたが…

青空文庫より引用する。

「ただ自由自在とのみ唱えて分限(ぶんげん)を知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。すなわちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。自由とわがままとの界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬(たとえ)ば自分の金銀を費やしてなすことなれば、たとい酒色に耽(ふけ)り放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、けっして然しからず、一人の放蕩は諸人の手本となり、ついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりとも、その罪許すべからず」

(ただ文字を読んで多くの知識を得ても実際の生活の方にはからきし役に立たないなど、学者然としていても実学のない人物の例を挙げたのち)「これらの人物はただこれを文字の問屋と言うべきのみ。その功能は飯を食う字引に異ならず。国のためには無用の長物、経済を妨ぐる食客と言うて可なり」

と、やはり怒られた。全く甘やかしてくれなかった。

学問のすすめ』は時代的にナショナリズム的な価値観が強いということこそ気になれど、本人の人生と照らし合わせても理路整然と一貫した名文だった。

僕自身も、個人の独立という段階までにおいては大いに納得し、気持ちを更に引き締められた。

精神の独立のためには、最低でも経済的に自立し続けなくちゃ駄目だと改めて改めて思い知る。

ひもじい思いでコーヒーを啜る。