目を見開いてさえいれば、苦しみからただ逃れるために開いた本にこそ、苦しみの元を断つ光明を見出すこともある。
読みやすい本を読もうと思い、勝海舟の氷川清話を開くと勝の文芸批評が載っていておもしろかった。
彼は、文芸作品や作家を広さと深さとで評価している。
「近頃の小説」
という項目にはこうある
◯ 今の小説は、西洋物をも加味して、昔物を焼き直すから、広いことは広いけれど、浅くっていけない。昔の小説を読むと、その時勢がわかるけれど、今の小説では、今の時勢は決してわからない。それに諷刺が浅はかで、すぐに人を怒らせるなどは、あまり知恵がないではないか。
露伴などが今少し年をとるがよかろう。(中略)まず今日では、露伴が一等だ。
その露伴に関しては以下のように述べている
◯ 小説も退屈なときには読んでみるが、露伴という男は、四十歳くらいか。あいつなかなか学問もあって、今の小説家には珍しく物識りで、少しは深そうだ。
他の小説家については
◯ 今の小説家は、なぜ穿ちが下手だろう。諷刺ということを殆ど知らない。たまたま書けば、真面目で新聞に毒づくくらいのことだ。気が短いのか、それともまた、脳みそが不足なのか。
穿ちというのは、物事の本質を正確に捉えるということだ。
勝に言わせると、その時代でなにが起こっているかを見抜く眼力で炙り出した問題や不平を、広範な知識の引き出しを用い、メタファーや情感としてそれらを読者に面白く伝えられるような作品こそが良い作品だということらしい。
繰り返しになるが、他の項目などに書いてある表現を用いながらざっくりまとめると、つまり、仏書や歴史や海外の作品など、ジャンルに囚われず様々なことに広く多く通じ、他の人が不用意に話す言葉からも同時代の局面における内外表裏や社会の形況や時世の変遷を理解することで知見を獲得し、そのエッセンスをそれとなく散りばめつつ読者に問題提起できるような才能を持つ作家こそが種切にもならず上手であると言う。
とかく読み続けること。そして他者との交流をうるさがらず、異なる目線から世界を知るきっかけとするというインプットは欠かせないのだろう。
アウトプットの面で、上手い諷刺という概念は抜け落ちていた。自分が書いたものに面白みを感じられなかったのは、そういった時代性が抜け落ちていたからではないだろうか。ちょっと書き直してみよう。
最後に現代の諷刺について考える。ラノベは皮肉なことに、ある種その爆発的な流行そのものが諷刺であると思えるし、表現の不自由展は諷刺が前面に出過ぎていて、下手だと言わざるを得ないような作品が悪目立ちをして議論を呼んだ。
俺は、今の力でも果たして上手くやれるのか?
そうこうしているうちに夜ももう3時を迎えた。