宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

踏み出し

こう雨が降る日は久しぶりのような気がする。偶然なのか何なのか、私自身鬱々とした気分になり始める。

配達のアルバイト中、車内で太宰治の「きりぎりす」という短編小説の朗読を聞いた。

聞き終えた辺りから、それまでなんとなくの予感に過ぎなかった苛立ちや虚無感が偏頭痛のように痛みを持って私を襲った。

「きりぎりす」は、成功するにつれて清貧さを失ってゆく画家に愛想を尽かした妻による別れの告白文である。

私は、いつになろうとも、死ぬまで書き続けてさえいればなんとかなると思って生きている。しかし、そのなんとかなるという衝立の裏にあるものを垣間見せられてしまった。考えないようにしていたのに。

盲信的で一心不乱に南無阿弥陀仏を唱える信徒と変わらない。異なる点は、作家になれば、生きながらにして救われるのではないか、そう信じていた点だ。

太宰が書いた世界では、「きりぎりす」の画家が、貧しくとも、なお作品の事だけを考え、誰にも頭を下げず、成功への登竜門である展覧会にも出品せず、ボロアパートでただ芸術に打ち込んでいただけの男であったのに、全てが理想通りに運ぶようになり、認められ、有名になり、大家の仲間入りを果たし、金を持ち、かつて自分を見下し嫌っていた人間が掌を返してすり寄ってきた。しかし結局救われなどしないのであって…

 

ーーー先週のある日、ここまで書いて、これ以上書くことを止めていた。そして雨は降り、それは今、止んだのだ。

「きりぎりす」について途中まで書いたその後、徐々に心血が垂れ落ち始め、鬱々と閉塞し、苦しくなっていった。

呻き、喚きまわった。この世が地獄にしか見えなかった。自分をカンダタだと思った。

病んでいると言われた。大丈夫だよと言われた。私は、私のことにしか関心がないのか、わからなくなった。

 

演劇というものは他者との関わり方が問われる。役者という他者を媒介して、私の望む瞬間を杭のように観客という他者の情感へ打ち込まねばならない。少なくとも、それだけの強さを持たねばならないのである。

Aが演じるトレープレフ、Bが演じるトレープレフ、Cが演じるトレープレフ。この可能性の無限さによる不安に耐え、私が私の責任の下に決定しなくてはならない。

演出家は役者に提案してはだめだ。要求しなくてはいけない。そうでなければ前へ進めない。

他者への要求。私が最も嫌い、避けていたことだ。結局その問題が巡り巡ってまたやってきた。私の前に立ちはだかってきた。

6人の役者、私がそれぞれ魅力を感じ、出演して貰うことを私が望んだ6人の役者。そのゆえを私は舞台上で証明しなくてはならない。彼らの魅力を引き出さなければならない。彼ら自身がその魅力を自覚していなくともだ…

 

今回、初めて演劇に関わることとなり、執筆と演出のそのどちらも引き受けることとなった。試行錯誤の連続である。とてつもなく辛い。辛いけれども時間は限られている。雲は厚く立ち込めているが、とにかく雨は止んだ。歩み出さねば。

誰が見てるか知らないけれども、近々宣伝致します。