宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

希望とは

父と電話をした。普段、私からはあまり連絡を取らないのだが、今日は違った。前の仕事先から給与が支払われておらず、催促のラインをしたにも関わらず明かに無視をされているので金が無いという窮状を話したことと、米が尽きそうなので、10キロほど送って欲しいという話をした。父と電話をする前は中野と電話をしていた。9月におこなう予定の次の公演について軽く話した後、いま私が死んだとすれば、中野を始め、死ぬ前に金を返せという声が次々に挙がって葬儀場を埋め尽くすだろうという話をして笑うしかなかった。私はすぐ山之口貘の『告別式』を思い出した。4月から、キチンキチンと働く予定は立てているので、感染症の影響さえなければ、しっかりと借金を返済して、私がいつ死のうとも誰からも悲しき謗りを受けないように出来るはずなのだ。

さて、私から父に電話をしたのはそれと他の要因もあった。今朝、姉からのラインで、私の父のブログのある記事と私のブログが似ていると言ってきていたからだ。私と父はお互いにブログを読んでいない。私は父にこのブログのリンクを送るつもりはない。読むつもりもなかったのだが、今朝は、私の2GしかないiPadの通信規制が解除されていたことも合わさって、読む気になった。

「人間」というタイトルから始まっている2007年に書かれたその短い記事は、誤字脱字もあり少し読みにくさを感じさせたが、かつて幼き私に蕩々と説いていた世界観そのものであった。そしてその考え方は間違うことなく私の胸中の片隅に深く埋まっているものだ。父のブログは去年また取り止めのないことを書き始めたようだが、2013年に精神病院に入院した際に一度中断されていたようだ。

父の入院は、当時親元を離れ福岡で大学生だった私に少なからず衝撃と混乱を与え、世界への不信を生じさせた。当時私は、私の父を病院へと追いやった人々に彼を理解してもらうために小説を書こうと試みた。廃城に住む孤独な男と周囲が彼に押し付けた哀れな犬の話だ。しかしこれは果たされなかった。父が閉鎖病棟から退院し、家の玄関で彼を迎えた時、彼が私に言った言葉が忘れられない。いささかやりきれない悲しい話だ。小説なんて書いたことのない当時の私がこれを物語にすることは叶わなかった。まだ物語の中を生きていたのだ。

話と話が陸の端っこ続きで繋がるのはなく、飛行機で移動するかのように飛ぶ。下関の次は門司というのではなく、羽田の次はバンクーバーというふうに…

2018年、鉄工所で働いていた頃に、ネットのライター以外でろくずっぽ文筆活動などしたことのなかった私にF氏が彼自身が手がけているzineのウェブ版に自由にエッセイを書かせてくれた事がある。実は先月末からそのF氏の下で働けることになったのだが、更に、彼は私の小説を自費出版する際の協力さえもしてくれると言う。私はこの機会に短編集を編むつもりだ。その後の事はわからない。賞レースを目指すべきか?感染症如何もあるが演劇もある。

私にとって、私の作品を待ってくれる人がいることは嬉しいし、まごう事なき希望である。希望に固執し、その光を目にしながら、悲しみの上を歩み、私は生きてゆくのだ。