宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

霹靂の後

今日は、新宿にある百貨店の地下の食料品売り場で販売の仕事をした。

聞けば、通常時はいつもごった返している群衆の影に埋もれて向かい側の壁が見えないほどであるというが、今月からここで働くようになった僕はその光景を知らない。ぼくの立つ売り場から四方を見渡すとどの壁だって見えるどころか、買い物客よりも手持ち無沙汰に立っている従業員の数の方が多いくらいだった。百貨店は明日からしばらくの間休館するとのことで、この光景も見納めである。閉店し「また来月ね」と挨拶を交わす従業員たち。その多くが明日から働きに出ることがないのだと思うとなんだか奇妙な心持ちがした。

ちなみに、先週の木曜日に初めて出勤した時、僕はバックルームのどこかにキーボードとカメラの入った小さなバッグを置きっぱなしにして帰ったので、それからの間、手書きでしか文章を書けず、随分と苦労していた。今日自分で探しても見つからず、ひとり心中で苦い絶望を味わっていたところ、親切にもFさんが丁寧に探して見つけてくださったので、今こうしてブログで遊ぶことができている。再び同じものを買えば8万円近くかかるので、一切を諦めかけていた。本当に嬉しい。

さて、読んだ本の話。今日、電車で出勤する時間を使い、青空文庫吉川英治『小説のタネ』、モーリス・ルヴェル『或る精神異常者』、森鴎外訳のリルケ『老人』、堀辰雄訳のリルケ『夢』を読んだ。(堀辰雄リルケの訳は鴎外のそれより22年も後に世に出たものであるのに、言葉遣いが難解で読み辛いことこの上なく、最後まで読むことができなかった。『風立ちぬ』もまた、私の無教養と薄氷のごとき忍耐では、一筋の意味の光も伸びて来ることなく、数ページで私の人生からその名著とお別れする事を決め込んでしまった事を思い出した)そのうちで特に心を惹かれたのは『小説のタネ』という随筆と『老人』というスケッチ風の短編である。

前者の「空想の遊びが功徳」という段は、幼いころから空想に生き、度々それに救われてきたという吉川自身の回想で、1892年生まれである彼は、拘束や抑圧を強いる家庭や世間という環境下で暮らすがゆえに、かえって逞しくなった空想力を自由に遊ばせ、楽しむことができるようになったという。この内向的な力によって、貧乏や過酷で危険な造船ドッグでの仕事や入院期間や爆撃機が襲来して冬の凍える防空壕で長い時間を過ごした時間を恐れもせず、退屈せずに過ごせたと語っており、それは井原西鶴が『好色一代男』で主人公を使って世の女性を空想で抱きまわったという例もあり、作家は皆そういった「空想使い」であるという話だ。防空壕ほど過酷ではないが、私は、私自身が徐々にこの感染症の一連の現実が自分にとって関連のないものではないことが明らかとなり、この変遷がいつまで起こり続けるのか分りもしない不安と閉塞に取り込まれ始めたことを感じていた。であるからこそ、戦争や全体主義国家の渦中を生き延びた男からの言葉は、ありがたかった。

『老人』は、ベンチに並んで座る3人の老人を描いた短編であり、その短い文章の中で、かつて存在していた世界との絆の多くを喪失してしまった、老いた人間たちの正体の哀しさを暴いている。私もこういうものを書きたい。私の為に私にしかできない世界の洞察を描き出したいと強く感じさせた。

時代はうねる。数世代前は世界大戦を経験し、今でも無数の空爆や疫病、虐殺、紛争、大災害、経済危機などが起こり続けている。当たり前などないと理論で理解していたが。とうとうそのうちの一つに直面することになって私は、ようやく人生に現実感を得られたのだ。変化に耐え、これまでの知を余すことなく振り絞るよう要求する現実が、行動と世界が直結していると感じられる現実がやってきたのだ。僕の頭上にあった蒼天がようやく死んだ。