何が私を妨げるのだろうか。
どこへ行けというのか。
「この世の真理を教えてくれ!教えてくれ!私からの問いかけに対して首を振るだけでもいいから」と、濡れた砂に向かって訴える。
ひとりぼっちの浅瀬の海で、ちゃぷちゃぷ水を掻き分け遊びながら、浜辺に寝転がっている人たちを横目に見る。徐々にその回数は増え、遂には目を離すことができなくなる。
遠浅の海、沖へと行くには彼らに背を向け歩まねばならない。平気な顔をしている。健康そうに見える。しかし心は農薬入りの蜜を吸った蜜蜂のように、左右に身をよじりながら仰け反って、長細い足で空を引っ掻いている。
誰も私を裁いてはくれない。誰も見ていない一瞬の隙に私はこっそり死んでいる。私はひとりだ。蜜蜂のように大量死によって目を引くことは出来ない。
そういえば、どうして迫り来る電車の前に立つ気になるのだろう。他に手段は沢山あるのに。これはまた、人間が行い得る大量死のやりかたなのかも知れない。想像する。高みを目指してたどり着いたロライマ山の頂点に100万の群衆。
そうか、私を妨げるものを取っ払ってしまえば、こうしたカスしか出てこない。私もなかなか馬鹿ではなかったようだ。
私は部屋着にしている浴衣の帯を使って、椅子に私を括り付けた。括り付けて、私からはカスしか出てこない。だからといって、実があるかと言えば、そうでもない。成長すべき時に実をつけることのできなかった秕なのだ。変色して萎びた果実。病気かも知れない。虫も食わない。
イメージの拡散。誰も乗ってこない連結車両。伝える気がないのか?伝えられる力すら持ち合わせていないのだ。
そこで諦めて、これがダダイズムなのだとうそぶく位ならば本当に死んでしまった方がましだ。体も精神も己の手によって滅ぼすしかない。
現代的な自殺は腹を割いて内臓を見せびらかしたり脳味噌の殻をアスファルトで叩き割ったりセルフ絞首刑をすることではない。電車とキスすることも都会的な流行からは遠のき始めている。今現在、満員電車などどこにもないからだ。農薬を飲むのはとてもニッチだ。
私は別にすぐ死にたいわけではない。煙草を吸っているくらいか。アメリカの作家K.V.曰く、喫煙は「高級な自殺」なのだそうだから。私もまた、死に対しては高級志向であることに相違ないのである。
死を意識しなければ、何もできやしない。
よし、大丈夫だった。次は「家具」について書こう。