宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

星間を満たすもの

  今のこの時代を、後世の人々はどう評価するだろう。日進月歩のテクノロジーにつき従うように変革を重ねる社会。進歩と一口に言うなれど、一体全体どこを目指しているのだろうか。ただやみくもに突き進んでいるだけのように思えてならない。社会という容れ物に、肝心の中身である人びとの考え方や心のあり方が充分に適応できていないままの状態だ。我々は、この断絶を神ではなく人間の力だけで埋められるのだろうか。それとも、再び神を墓場から引きずり出すことになるのだろうか。

  梅雨。レジカウンターに客がくる。このクソ暑く水気を含んだ空気をマスク越しに吸い吐きしながら。汗で擦れて垢の浮いた肌を服の内に感じながら。《また客だ》と店員は思う。先の客の精算の後処理が終わらぬうちに次の客が商品をカウンターに置く。ビニール袋が必要なのかどうか店員は尋ねる。店員のマスクは安物の減音器みたいに声の振動を緩和させ、1週間前の唾液の痕が残ったままのしみったれたビニールカーテンが双方を遮っている。ただでさえ耳の遠い高齢者が巷に溢れかえっているし、イヤホンで知らず知らずのうちに耳を悪くしている者だっている。つまり客は店員の言葉が聞き取れない。そして客の言葉も店員は聞き取れない。大抵の場合、店員か客が苛立ちと攻撃性を露わにして叫び出す。そこには一方的な自己憐憫と不寛容しか存在しない。なんという断絶、なんという虚無。なんという生産性のない憎しみ。とても馬鹿馬鹿しい。

  私と付き合いのある人々は、私を皮肉な人間だと言う。自覚はなかったが、こんなことを書いて鬱憤を晴らそうとしている今となっては否定するのは困難かもしれない。しかし子供の頃は友人たちの混じり気ない朱色の祭りから遠ざけられるような皮肉屋ではなかった筈だ。不満轟々たる自分を抱えて生きるということが大人になるということならば、大人になる前に死んでしまうべきであったかもしれない。けれども私は変わってしまった。もはや過去を追憶する為だけに死ぬことはできない。死ぬには遅すぎるという言葉の意味をようやく理解した。

  苛立つ店員や苛立つ客の間に隔たるものを取り除くことはできないのだろうか。言葉を聞き取ってもらえなかった相手を呪うことで今後生きやすくなるとでも言うのであろうか。困難を優しさやユーモアで乗り越えようとしない人たちがいる。想像力を捨てたり奪われたりした後に残るものは歯止めのない残酷さだけだ。その残忍さはやがて死に向かい、時に誰かを滅多刺しにし、誰かを平気で死に追いやり、時に己を電車の前に放り投げる。

  星は真空に取り囲まれて孤立している。私と世界との間、私と私自身の間にさえも、埋められない断絶がある。しかし、人間は想像力を用いて星々の断絶の上に線を繋ぐことができる。同じように、自分、他人、動物、持ち物、自然など、あらゆるものに絆を感じながら生きてゆくことがどうしてできないのか。我々が目指すべき進歩は再び想像力を取り戻すことにある。