昨日は奥多摩へと日帰りの小旅行に出掛けた。都市を離れ、急峻な山林の底にのたうつ青い川、食堂では手擦りの山葵、粘っこい温泉水に浸かり、晩夏の渓谷に漂う侘しさの中を歩いた。
立ち停まり、考える。
2020年もあれよあれよと最後の峠に差し掛かってきた。ここでいま一度、リュックを下ろして私が何を背負っているのか見直し、重要なものとそうでないものを区別するなど、荷物を整然と整理しておくべきであろう。
いま、私の背負っている荷物のうち、主たるものはざっと以下の6つである。そのうちの4つはタイマーがセットされた時限爆弾だ。
・書店員として、書店との取り決めに従って出勤し、時間いっぱいまで何かしらの業務をこなすこと
・F氏の食品会社を販売員として手伝うこと
※10分程度の映像作品の撮影〜完パケまでを来週土曜日までに終えること
※来月14日に撮影が行われる劇団の配信公演のためになるべく早く新作を書き上げ、演出を行うこと
※来年の1月に行う演劇作品のため、脚本を書くだけでなく、あらゆる用意をすること
※友人らと作る雑誌を完成へと進めること
他にもリュックに入っていて、取り出しやすいところにしまってあるものは
・小説を書くこと
・読みたい本を読むこと
あまり重要ではないが生活に関することは
・まだ暖かいうちにガス料金を払いガスを開通させ、IHで熱したヤカンや鍋でお湯を浴びる生活を止めること
・各種光熱費用の支払い方法をカード引き落としへと移行させること
・この先しばらくこの部屋に住むのであればインターネットを開通させること
・その場合用途に合った程度のPCを購入すること
・加えて冷蔵庫ラックと洗濯機ラックを購入し、暮らし向きを向上させること
・自炊を再開し、安定した生活コストと自信を回復させること
パッと出てくるものはこの通りである。
なんとも慈悲深いことに、身は一つしかないうえに時間は不可逆なのだ。リュックの中の問題を一つ一つ潰してゆくほかない。
残念なことにストラックアウトのような二枚抜きや、ドミノ倒しのような慣性で解決するようにはできていないのである。
このように、生活とは泡のように湧き上がる煩雑さと欲求との伴走だ。いつか死する時が来るまで、ずっとこんな感じなのだろう。
いかにも、私は大変な面倒くさがりである。記憶を辿っても夏休みの宿題を仕上げて提出したことは一度だってない。安易な諦めの気分が身体の芯まで染み込んでしまっている。かと言って、一切を放棄する勇気など私は持ち合わせていない。
当時から「やればできる」などと言われ続けてきたが、そのまま人々の記憶から消えてしまう未来が容易に想像できる。それでもなお、荷物を背負い込んで歩いているのはなぜだろうか。
コンビニの過剰なほどの白い光の中に佇んでいて、思ったことがある。人間は皆、心のうちにゆるやかな死への欲求を隠しているのではないだろうかと。
煙草、酒、菓子、クソみたいな食い物、愚にもつかない時間潰しの低俗な本。いくら身体に悪いと聞かされようが、人々はそれをやんわりと無視する。いますぐに絶大な苦痛がもたらされないあらゆる自殺法を人々は試みているとも取れる。これは偏屈な見方だろうか?
まあいい。話が逸れた。片付けをしている時に限って、手を止めて余計なことを考えたりするものだ。
抱えている問題たちを改めてここに書き出してみることで、優先順位がついてきた。
さあ、さっさと動画を撮る場所とスケジュールを決めなければ、どれだけ拙かろうが脚本を書き上げなければ。明日もバイトだ。