宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

タタタイトル

日の目を見ぬ原稿用紙の山が箱詰めされているような時代ではない。推すも敲くも闇雲なまま、このタイトルみたいに単なる思いつきの文章は即座人の目に触れる。

もっとこだわりを持つ必要がある。

現代のエクリチュールの在り方について考えている。

 

さて、いまの僕。

バイトから帰り、眠り、目が覚めた。

疲労、眼球がじくじくに爛れ落ちそうな違和。

金に余裕ができようと、僕は贅沢する気になれない。そもそも、給与明細も預金残高も見ない。

ぽつねんと駐輪場に佇むバイクも修理に出さず、寂寥の念を覚えようと女を買わず、哀しかろうと酒も飲まず、博打に心を弾ませる事もなく、模様替えに悩む楽しみも持ち合わせていない。映画館通いも身に付かず、というよりも心に付かず。とうとうゲーム機さえも他人にあげてしまった。自発的に観劇にも行かずライブハウスにも行くことがない。テレビは通電されない不平を胸に黒々と押し黙っている。

わが贅沢。わが中毒。わが吝嗇。日に数本の煙草を燃やしては消しているくらいか。それでも一度なくなってしまえば、そのまま何週間も買わないでいることだってある。

わが贅沢。猫にチャオチュール。

そして本は買う。

こうして残るものが、僕の好きなものなのか。

好きなものにはこだわりたい。そういう話をしたかったのだが。

きっと好きになるだろうというもの。茶道、居合、フットサルにボルダリング。でもそのどれも結局やっていないまま。

来年はある語学学校に通いたい。

人は来年こそはと口にしながら、日々日々老いてゆくものだ。
「これでいいのだ」なんて僕には決して思えない。僕は毎晩、やり残した物事のあまりの多さに閉口したまま死んでしまうからだ。

永劫回帰の地獄の輪廻を自ら進んで受け容れるには、ある種のストイックさを持つことでしかあり得ない。

そんな態度は、中庸をよしとするような馴れ合いの中に安んじていては決して産まれ得ないものだ。