宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

外へ

いざ実験!!

までやったことがないことをやってみる。今まで見向きもしなかったものを注視する。例えばそれはカーソルを合わせたこともなかった機能アイコンを試してみたりすること。このブログもそんなに記事を書いちゃいないけれど初めて記事を書いてからそれなりに経った。初めて記事を書いた頃は何でもいいからものを書く経験を積みたい思いで一杯だったので、編集画面の上部にごちゃごちゃ連なった各種機能など一切を無視していた。別段困ったことはなかったのでそのままにして置いたのだが、やはり若干飽きがくるし、そうなれば遊び心を差し挟みたくなるのが人情だろう。ゲームでいうところの経験値が溜まってレベルアップしたのだと思いたいものだ。だが、こういうブログでツールを使うにおいて気を配っておきたいことは、ツールを利用した表現をする際には月並みなセオリーに己の可能性を収斂されてしまわないようにすることだ。と、言いつつ、現状使ったのは太字の見出しに頭文字の拡大。ありきたりな技術だ。要するに、打消しなどは個人的にはどうもダサく感じられてしまうので、画期的な使い方が思い浮かぶまでは使わないでおこうということ。

 さて、最も肝心なのは何を書くかだ。先の記事で書いたのは次は何か一つのトピックについて論じたいという旨だったが、どうにも気が進まない。私は未来の私に負債を背負わせ無理強いすることが好きだ。なお一層バツの悪いことに私は過去の私からの期待を反故にすることに一切の呵責も感じないのである。それでは何を書くべきであろうか。わからない。今僕はタバコを吸おうとしている。PCはクロームでこのブログ、バックグラウンドでSpotify久しぶりにthe1975。PCモニターとキーボードの間に本が四冊積み重なっている。下から太宰治全集、嘉村磯多『業苦/崖の下』、文學界の創刊1000号記念特大号、ボーヴォワールの『女ざかり』だ。摘まむようにページを開いては書き抜きをしたりする。ここまで書いてタバコに火をつける。途端に過去に思いを馳せる。過去といっても半日ほど前。私は多摩美にいた。田舎の丘陵にへばりつくように連なる建築物の中には所狭しと学生たちの卒業制作が並べ置かれていた。極端な物言いをすれば作者たち皆に共通するのは同じ学校の学生ということだけ。それぞれ興味関心が異なり表現の手法も異なる。限定された空間であっても無秩序的な広がりを感じた。劇団を手伝ってくれたりしている友人のパフォーマンスがあったのでそれも観た。今回の彼女のパフォーマンスは、形而下では静、形而上では非常に動的なもので、私に「もっとよく見ること、もっとよく聞くこと、もっとよく考えること」を要求していた。私は今日、彼女のパフォーマンスを見る前に見てきた沢山の作品たちを実は全く見ていなかったのだと思い知らされた。『女ざかり』を読んで嫌というほど知らしめられるサルトルの博識広聞に裏打ちされた洞察の眼、「文學界」に掲載された黒田夏子のインタビューで語られた、取材で自宅に来た女学生時代の黒田を「見るともなく見るというような視線ではなく、全身で身構えたような凝視」で見続ける、飛び出さんばかりに見開かれた川端康成の貪欲な眼。僕はこれまで何も見ていなかったに等しい。この世界の表皮を引きはがし、深層まで見通せるほどの志向性を持った眼を持ちたい。そのためにはどうすればよいのだろうか。ただよく見ようと意識するだけでは到達し得ない領域にまで踏み込みたい。