宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

渦巻く銀河のその眼の奥の

自分は生半可な人間である。覚悟も能力もあまりに甘く拙い。

覚悟は行動によって証明され、能力は他者への影響によって推し量れる。

いつも創作の不安に苛まれていて、まるで心を奪われているにも関わらず、まるっきり何も作れていない。見返すこともない電子メモに思いつきを書き足しながら、続きが書けない2枚の原稿用紙を文士気取りのアイデンティティを保つための護符代わりにカバンに入れて持ち歩いているだけの日々を一体幾日費やしたことだろうか。

目に見えぬ絶望と焦燥は一時的に忘れることはできるものの日々確実に重みを増し、真綿で首を絞められるような苦しみで呼吸もままならずにうなされる夜を繰り重ね、まるで死霊に取り憑かれたかの如く白昼にまざまざと悪夢を見る。

立派な作家になりたいという理想と、それを大義名分にして満足し肝心な自分自身と向き合わず生半可に過ごしてきた現実が決定的に齟齬をきたし、とうとう二つに引き裂かれてしまった。周囲にうそぶいてきた虚構の私とひた隠しにしようとした現実の私との間に生じた到底埋められようのない深い亀裂に、私はいつの間にか落ちてしまったような気がする。

過去の自分自身が意図せずも作り出した未来の姿がここにある。そして今の私はこの状況を全くもって受け容れられない。そんな体たらくであるから、私のことを知る他者の存在は邪魔なのである。他者は皆、ただ私のことを知るというだけで、怠惰の罪を犯したこの私を生きながらにして地獄へ叩き落す鬼になるのであり、私の道を塞いだ挙げ句命を奪わんとする悪魔ともなりうるのである。

私には余裕がない。持ちつ持たれつ、認め認められ、許し許され、利用し利用されといった共犯関係を誰彼ともなく結ぶことはできないと、近頃ようやく自認した。私には余裕がないので、信用貸しをすることはもうできないのだ。もはや即金・即物の取引でしか人間関係を形成できない。実に近視眼的だが仕方ない。今となっては溺れる者である私が誰かに微笑みかけることはできない。

私自身が自分の世界にコペルニクス的転回を見出すまで、この無間への落下は際限なく続くだろう。

2021年、私は27歳で未だ何も証明できず自分の価値に満足できないことで、精神的なクライシスを引き起こしてしまった。

どうにかして、どうにかして安寧の地を見出したいという願いこそがそもそもの悲劇の要因なのだろうか。宮崎駿の書いた「シュナの旅」を思い出す。主人公シュナのように苦しみの旅の果てに安寧と豊かさへの鍵を手に入れられるのだろうか、それともその鍵の存在を夢見て一人で探し続け、やがて飢え切って行き倒れ死んだあの老いた旅人にしかなれないのだろうか。

今も昔も私は生き辛さを抱えていて、子供時代に夢見ていたほどこの世に生きる人間は互いに理解しあえない。かつて私は「人間到る所青山あり」として一縷の望みをかけて地元を離れ安寧の地を探し求めて旅立ったのだが、いまだ私は私自身を不可欠な存在だと思えないし、どこと比べても絶対に替えの利かないほどの居場所を見い出すにも至らない。

世間的に簡素に言えば、とどのつまり、自分の気持ち一つでどうにでもなるのかもしれないが、その自分の気持ちというものの姿かたちを正しく捉え、手綱をつけて自分の意思の元に制動できる人間なんてLSD漬けの導師をおいて他にはない。