宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

どうしてよいかわからない

世界は掴みどころがない。その内側に入り込むことはおろか、僕はただ表面を滑ってゆくことしかできない。

失望や憤りが焦燥と結合して燃えている。その熱で僅かに残っている僕の若さがふつふつと沸き立って蒸発する。

僕は世界の上っ面を滑ってゆく。世界を置き去りにしているようでいて、世界から締め出しを食らっている。

それもこれも、僕が自由を行使しないでいるからだ。僕はソファも旅も選んじゃいない。

パチパチと失望が爆ぜる。憤りが焦燥を吸い込む。

僕は一体何を待っているのだろう。僕を知りたい。

そのためには僕を僕から切り離し、一つの客体となって僕を見つめる必要がある。

要するに、鏡みたいなものだ。一つの虚像を構築し、そいつをじっくり検分する。

ただ、自分の思考を探るには、僕を僕から切り離し、無意識が構築した無人の洞窟に降下する必要がある。

形而上世界においては輪郭を明確に表すような鏡などない。盲者が人の顔を確かめるように…イメージが混線してきた…いつものことだ…このまま書き続ければさらに錯乱した文章になるだろう…傷の入ったCDみたいに音飛びして…聞いちゃいられない……僕はまともな作文さえ作れない低能なんだろう…しかし…今は思うがまま書きたいのだ…

 

そうだ、久しぶりに過去の作品のアンケートを読んだ。これまで気に留めていなかったアンケートの感想が妙にざらつきを残した。

過去数作のどれにも共通して一定数、異口同音に書かれていることは「作品に出てくる登場人物や展開に救いがない」という感想。

そもそも娯楽作品など作るつもりはなかったので気にしていなかったし、僕が鑑賞者の立場の時は見る作品に救いなど求めていない。

今思い起こすと「救いがない」と書いているお客さんはみんな50代以上だったように思われる。子供時代からポストモダン的な気風の影響を受けたか否かの違いなのかもしれない。

元々書こう思っていたのは、子供時代のポストモダン云々ではなく、もっと単純。作者である僕自身が自分の人生に救いを見出せていないということではないだろうか。さらに言えば、過去においても救われたことがなかったのではないだろうか。

ゲームは明らかに逃避としての救いであった。しかし同時にどこかへ辿り着く可能性をも縮小した。ノアとその家族が終末に備えてせっせと世界を駆け回っている間にも僕はテレビを見つめていた。そして太陽は見えなくなり厚い雲が立ち込めてきたことも意に介さず、僕はキャラクターを酷使する悦びに浸っている。

文学や歴史への嗜好は僕の苦悩を深めた。僕を時代錯誤な人間に仕立て上げ、僕は周囲との同調から追放されてしまった。

スニーカーにも萌えアニメにもアイドルグループにも興味がない。ジャンプを買ったことがない。だからと言って幾何学もできない。

どん底だ。

しかしここから文句も言わず働くことだっててきるはずだ。だがそれをしないのは何故だ?結婚だってできるはずだ。だがそれをしないのは何故だ?自殺だってできるはずだ。だがそれをしないのは何故だ?海外を旅することもできるはずだ。だがそれをしないのは何故だ?誰かを殺したり、何かを盗んだりして、罪人として生きることもできるはずだ。だがそれをしないのは何故だ?これらに関しては分かってきた。お客さんが再び入場できるようになった今、もう一度演劇作品を作ろうと思っているのだ。まだやってみたいことは残されている。滑り落ち続けている人生だが、物語を作ることによって、僕をこの世界にピン留めできるのかもしれない。「救いを見出せていない」と言いつつ、僕はじっと何かをやり過ごしたり何かを待っているのではなくて、箱舟の材料をかき集めている最中なのかもしれない。最も、僕は神託を受けたつもりはないし自己救済しか考えていないので、ノアに自分を重ねるつもりはない。思うに、僕を先鋒とする芸術家気取りの奴らは皆、過分に小乗仏教的信仰心を持っているのかもしれない。

ともかく、じきに厚い雲が青天を閉ざすことだけは確かだ。

それから後の事は、まだわからない。