いま、ぼくの怒りはゲームに向かっている。
正確には、ぼくの依存性にだけれど。
ぼくは10時間浸っている。ゲームに、スマホに、ネットの下らない掲示板に。
Wキーで前に進む。このとき、Shiftキーを同時に押していればAPゲージがなくなるまでの間はダッシュできる。
ぼくは10時間もの間ずっと同じ場所に座って、同じ画面を見つめている。トイレと食事はするけれど、その間はずっと、同行するコンパニオンの好感度を上げる選択肢について調べている。
思い返せばずっとそうだ。小学生の頃からゲームばかりしていた。脳がほろほろになって耐えられなくなるまでは、空が明らんだって眠らない。
実家に帰ったことで、人付き合いの煩わしさは無くなったけれど、いつの間にかPCゲームに取り憑かれていた。
正確には、ぼくがゲームに取り憑いたのだけれど。
Tabキーを押すとPip-Boyが起動できる。そこから→キーを3回押すとマップが表示されるので行きたい街をクリックする。それがすでに行ったことのある街であればファストトラベルして移動時間を短縮できる。
ゲームは全てアンインストールした。我が家のネット環境であれば、再びインストールするには数時間かかる。PCの起動ボタンを押してパスワードを入力し、メニュー画面をワンクリックする1分間とは違って、冷静になるための時間はたっぷりある。それでだめなら、もうだめだ。
例え阿蘇山が大規模な爆発を起こしても、多くの人はテレビを見ながら死んでいくだろう。ゲームをしながら死んでいくだろう。Youtubeを見ながら死んでいくだろう。Twitterをしながら死んでいくだろう。あるいはTikTokかもしれない。多くの人は半笑いで死んでいくだろう。
上空を火山灰と噴石が覆い尽くすとき、ぼくはせめて祈っていたい。信心なんてこれっぽっちもないけれど、死ぬ時くらいは世界をもっと身近なものに感じていたい。
人型や動物の敵が現れたら頭を撃て。見事クリティカルヒットすれば、相手の首を吹き飛ばせる。
ぼくはゲームをやめる。毎日を祈りに捧げたい。失ってきた現実感を取り返したい。希求する心を。執念を。愛を。