宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

再起動

ゲームするのをやめたぶん、余暇ができる。

ずっと眠ったりして意識を失っていることは不可能だ。それにぼくは酒が飲めない。

この時間を使って何をするかが未来の自分を作りだす。なので、僕はある文芸誌に詩を投稿することにした。プログラミングを学んだり、どこかの工場の求人を探すつもりはない。

親も将来の自分も嘆き悲しむかもしれないが、そんなことはどうだっていい。

詩を書く前に、本を読んだ。太宰治『風の便り』だ。すぐれた小説はこれは自分の話だと読者に思わせるような作品だ。

先日発表した僕の作品集にはそれがない。それはそうだ。ほとんどをこのブログから抜き出したのだから。僕はこのブログを自分のためだけに書いている。

『風の便り』にぼくは酔わされた。読んでいるうちに、ぼくの身に実際に起きた出来事がオーバーラップしてくる感覚に興奮した。作中人物に投げかかられる厳しい言葉は、まるで我が身を貫くような痛みさえ引き起こしたし、ぼくにもあり得るかもしれない救いのよすがが示されたとき、両の眼に涙がにじんでくるのが分かった。終盤ではあまりの情けなさを演じた手紙に見事につられて声を上げて笑ってしまうことさえあった。

こんなものを書けるなんてすごいなあ、と思う。うらやましいなあ、と思う。

ぼくが投稿しようとしている詩には、そんなものこれっぽっちもない。これっぽっちもないのだが、それでも書いて出そうと思う。ぼくは、ちゃんと『風の便り』を読んだのだ。最後の便りにはこうある。

…自分は君に、「作家は仕事をしなければならぬ。」と再三、忠告した筈でありました。それは決して、一篇の傑作を書け、といふ意味ではなかったのです。(中略)どこまで行ったら一休み出来るとか、これを一つ書いたら、当分、威張って怠けてもいいとか、そんな事は、学校の試験勉強みたいで、ふざけた話だ。なめてゐる。(中略)生きているのと同じ速度で、あせらず怠らず、絶えず仕事をすすめてゐなければならぬ。(中略)作家は、平気で歩いて居ればいいのです。五十年、六十年、死ぬるまで歩いてゐなければならぬ。「傑作」を、せめて一つと、りきんでゐるのは、あれは逃げ支度をしてゐる人です。それを書いて、休みたい。自殺する作家には、この傑作意識の犠牲者が多いようです。

ぼくは作家だ。他人がどう思うかは知らないが、そう自分で決めたのだ。だから、生きて、歩まないといけないのだ。

太宰は確かに自殺した。自殺はしたが、決して休まなかった。傑作を、いくつも書いた。きっとメロスみたいに走ったのだろう。

とにかく、ぼくは目の前の詩を書き上げて投稿する。ワープロ可ではあるものの、原稿用紙に手書きで書いている。要項にあわせたワードの設定に苦労するよりそのほうがシンプルだし、早いと思ったからだ。それなのに、何度も書き損じばかりて、全く出来上がらない。焦らずいこう、絶望するな。また間違えた。自分の低能さを笑った。