宇宙をぶらぶら漂流中

時松功平です

堕落すらできない者の繰り言

苦しみがつのって耐えられなくなったら、ただちに前進することだ。(ヘルマンヘッセ『地獄は克服できる』岡田朝雄訳 草思社刊)

怖くなってきた

書かないでいることに

雑音と雑念が締まりのないジャムを奏でているまま画面に向かう、そんな状態でキーボードを打っても、手習い以下の雑文しか生まれない。

そういう端切ればかりが下書きに溜まっていく。

ブログ記事さえ満足に書き上げられないまま何日も何日も何日も過ぎた。

衛星軌道に身を委ねてやんわりふんわり死の周辺を漂っていた。

突如稲光がして目が覚めた。ぼくは怖くなった。

すかさず耳にスポンジを突っ込んだ。近すぎて明るすぎるPC画面のせいで目がチカチカする。失明したら本が読めなくなってしまう。それだけは嫌だ。

小学生の頃、床に寝転んで床材に流れる音を聞きながら考えたものだ。どの感覚器官を失うのがもっとも恐ろしいだろうかと。

ぼくは視覚だとすかさず結論付けた。目に見えるものをすべて奪われれば、世界を改めて認識しなおさなくてはならない。野球もゲームもできやしない。

だが今こうして30近くなって考える。あらゆる感覚器官から同時に伝わってくる膨大な情報をうまく処理できずにこれまで生きてきたということについて。

視界にあふれる物体や表情、折り重なる音の波、首筋を這う脚のタッチ、舌から伝わる彩色、鼻腔を満たす空気について僕はなんとなくに任せていた。失うことをあれだけ恐れていたのに、さほど大切にしてこなかった。

感覚の処理を自動運転モードにして、自動判別機械が重要だと提示してきたものにだけ関心を向け、そのほかの森羅万象をほったらかしにして生きてきたのだ。

人間関係だったり未来や過去についての思索にばかり気を向けていたから、自分の肉体を取り巻く現実世界をおざなりにしていたのである。要するに、あまりに概念的に生きてきたということだ。そしてその概念は突き詰められたものではなく、霧のようにまとまりがない。自分が幽霊のように感じられるのも、つまりそういうことだ。

今を生きるということは、そういった全感覚を手動運転で精査することではないかと思う。そして、今を生きなければ面白い小説なんて書けない。
何べんも何べんも何べんも書いているが、このブログはぼくのためのものだ。自分がモチベーションをあげるためのものだ。ここでは何を書いたっていい。法律を作ってるわけじゃないんだから。

現代は感覚を言語化する能力を涵養するための望ましい環境ではない。目の前の洛陽の美しさを自分の情動と絡めて留め、伝達する主要ツールはもはや言葉ではなくなってきている。李白はもうこの世にはいない。文学は徐々にオペラや歌舞伎のように、もとは大衆の娯楽だったものが鑑賞するための能力を訓練した愛好家だけのものになってきているように感じられる。

まあ、それはそれでいいのだろう。文学の影響がちいさくなっても、世界はそれなりにやっている。これまで人間が繰り返してきたみたいに首切り戦争は起こらないし、飢餓で村ごと死んでしまうこともない。サッコとヴァンゼッティは結局死んでしまったし、太宰治でさえ焼夷弾で家を焼かれる時代の作家なのだ。そしてSF小説ベトナム戦争を止められなかった。文学は嘆くことしかできないのだろうか?

トルストイの長編よりもCNNドキュメンタリーの1時間番組のほうが、よっぽど世界平和に貢献しているのかもしれない。

でもまあ、役に立たなくたって面白ければいい。ぼくだって世界平和の為に書きたいんじゃない。こうやって思ったことをずらずら書いて時間をつぶすのが好きなだけだ。

好きという割には随分サボってきたのだが。

戯言は今日はここまでだ。内容はどうでもいい。とにかく何か書いたのだから。さあ感覚を研ぎ澄ませて、いつもよりぬるいシャワーを浴びてみよう。