バイトを終えて家へ帰る。
グループラインはぼく以外のメンバーで楽しそうに進行していく。
特に言いたいことはないから口を挟まないでいる。
カナダに行きたい気持ちがつのる。
塾講師のアルバイトは楽しい。全く稼ぎにならないけれど、働いて抑鬱的な気分にならないのは初めてのことだ。英語力もずいぶん上がった。
いい仕事だと思う。同僚からサボってるとか仕事が遅いとか言われることもないし、客に嘘つく仕事でもない。
ぼくはこの時代に20世紀型のメランコリーを有している数少ないひねくれ者だ。
自分がひねくれているのは昔から知っていた。だからこそ、異物なりに道化の役割を演じることで市井に居場所を確保していたのだが、そいつはもうやめてしまった。
それでこれからどうするか。
ぼくは特定の宗教を信仰していない。3大宗教のそれぞれの経典さえ読んでいないから、それらが僕の苦しみを救ってくれるかどうかは謎だ。小説を読んでいるとキリスト教の引用や言及を目にすることが多いので、ある程度かいつまんでは知っているくらいか。無教養なのだ。でも、SF作家がでっち上げたある宗教に強く共感を覚えている。もちろん、サ〇エン〇ロジーのことではなくて、P.K.ディックが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で登場させたマーサ―教とK.ヴォネガットが『猫のゆりかご』で書いたボコノン教のことだ。詳細の説明は省くけれど、周囲に迎合したくないという歪んだ願望を持ったまま、寂しさに押しつぶされないためには、どう考えればいいか、なんとなくわかった気がする。
他人は地獄だと呼んだサルトルでさえ、その考えを終生持ち続けていたわけではないのだ。
それでも孤独を感じる。ぼくは共感(エンパシー)ボックスを持っていないから、こういう時どうすればいいのだろう。小説はすこしだけそれに似ているような気がする。
いつか世界と折り合いがつくまで、歩き続けるほかはない