『虞美人草』を読み終えた。最初のうちはオーディオブックで聴いていただけだったのだが、あまりに面白くて途中からは活字で読んだ。創作期間中の読書はまさに宝探しである。その宝探しのツルハシの先が見事鉱脈を掘り当てたのである。並行してKindleで読んでいる志賀直哉の『暗夜行路』の方はいま取り掛かっている戯曲に直接的な啓示を与えるものではなかったから、名作と言われて読み継がれてきたものならば何でもかんでも当たりというわけではないようだ。ある商人が銅の仕入れのために山陰の海上を航行しているとき偶然光る山を見つけて石見銀山の銀鉱を手に入れたエピソードに似て、仕事中の暇つぶしにと流した漱石の小説こそが救いの神からの啓示であったのだ。あとはそこを掘るだけだ。
かの小説は大いに戯曲の構成を意識したものである上に重要人物として煮え切らない詩人の男が出てくる。彼の他人を欺いた行動は周囲を不幸に導くのである。僕の書いている戯曲の主人公も詩人である。僕自身の卑怯な性格を切り抜いて投影したものであるから(このブログを多少なりとも読んだことのある方は既にお分かりであろうが)情けないほどに弱いひとなのである。驚くべきことに、漱石の書いた詩人も己の弱さに辟易としており、泰然とした人物への憧れを心に秘めていることを独白する。「竹を割ったかのような気持ちの良い人になりたいが自分には到底そうできないだろう」という迷いは実に心当たりのあるもので、僕自身たびたび他人に打ち明けたりこのブログに書いたりしている問題なのである。その問題の解決案が明治時代の小説の中で示されていた。100年も前の時代の男から自分の卑屈さをこっぴどく叱られた気分だ。誰に相談しても要領を得なかった問いの答えが古き時代よりもたらされた。ありがたい。話が傍に逸れたが、つまりはキャラクターの設定が似ているので、大いに参考になったという話である。
ただ、そのまま虞美人草を書きうつすというわけではない。結末は大いに異なる。ロンドンに留学した経験もある漱石は『虞美人草』においてはシェイクスピアの戯曲を念頭に置いている節が随所に見受けられ、フィナーレではもちろん主要な登場人物が勢揃いし、それぞれがそれぞれの運命に帰着する。またしても余談だが、漱石とおなじく作中でシェイクスピアへの言及が甚だ多いヴォネガットはもちろんのこと、彼の教え子であるジョン・アーヴィングの小説でも主要な登場人物が最後にパーティーなんかで勢揃いする事が多い。アーヴィングのそれなんかは特に効果的に使われており、ときに涙が流れるほどに素敵で大好きなのだが、僕が計画している作品のフィナーレは真逆である。僕の話のオチは不条理劇から影響を受けている。これは漱石没後二つの世界大戦が起きた時代の作風なので、神のいた時代よりももっと懐疑的で空虚なものだ。大団円とは逆に登場人物が主人公の周囲から1人また1人と去っていくのである。僕の書く詩人は自ら世界と自分とを切り離して生きてきた罪に対する罰を受けるのである。こののちに待つ全ては空虚であると信じたとき、人は自ら死を選ぶ。
漱石の『虞美人草』に出てくる詩人も、物語の終盤に諭される「真面目に生きろ」という説教を受け入れて心変わりしなければ僕の書く戯曲の詩人と同じ運命に至るであろう。僕は『虞美人草』を読みながら、この小野という詩人は物語の途中で自殺するだろうとずっと考えていた。だがそうではなかった。僕の書く詩人は人との交わりが全て消滅してしまった後に、絶大なる虚無に襲われながら「死か書くか」というところまで追い詰められるのである。この詩人は己の頭も才能も空っぽであることを知りつつ、夏休み最後の日の子供のように泣きながら机に向かっているところで幕となるのだが、遅かれ早かれ自分で死んでしまうだろうと思う。この時代において人を引き寄せられない詩人は詩で食っていくことはできない。手に職があるわけでもないし、職場の人間関係を上手くこなすこともできない。単調な仕事に耐えるだけ真面目に生きてもいない。要するに生きていけないのである。蟻地獄の底に待つ死へと彼は滑り込んでいくだろう。
その弱い人間の生き様を僕は表現したい。だから僕は書かなくてはいけない。善とか悪とかそんなものはこの物語には存在しない。