自分の父親がこのブログに目を通すことを日々のルーティンの一つにしていることを察して以降、一切書く気がしなくなったこのブログを、あえて父のために書くことにする。
ただ、以前に何度も繰り返し懇願した通り、どうか読んだという報告や、会話の折に内容について触れることだけはどうかお控えいただきたい。読んでいることはちゃんと知っている。ラグビー選手として大成し、優れた知性も理性も併せ持っているあのY君でさえ、試合の後日ご両親から上手くいかなかったプレーについてあれこれ言われるのはどうにも閉口すると私に話してくれたことがある。それが元来器量は狭小、考えが浅薄で癇癪持ちの私ではそれは閉口どころの話ではないのである。それに、このブログは僕が文章を書く練習をしたりネガティブな感情を吐き捨てておくための場所なのだから、父子での会話の最中にわざわざそこから悪臭のするゴミや書き損じの手習いを拾ってくる必要があるだろうか。
要するに、ご要望の通りときおり書くが、読んでも子の世界観を知る上での参考程度にとどめておいていただきたいということである。
それに、全部が全部本心で本当の話であるとは限らない。
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さて、夜、私は座禅の真似事をしようと思った。最近はいい事がすごく多いはずなのに、この夜はなぜか原因のはっきりしない苛立ちが尾を引いていてどうにも抑えられなかったからだ。まさに心中では癇癪玉が爆発していた。それから心は揺れに揺れ、憎しみが鳴門の渦潮のようにうねりまくっていた。あぐらをかいて目を閉じるだけでそいつが凪いで明鏡止水。月を少しもたわみなく、そのまま水面に映し出されるとまで思っちゃいなかったが、せめてスマホも触らず静かに座っていることで私の子飼いの捜査班たちが癇癪玉に火をつけた下手人が誰か捜索するための一助にはなると思ったからだ。
はじめる前に困ったのは清潔な床がないことだった。名のある禅僧とかなら土足で踏み荒らしているカーペットの上でも平気に座禅を組めるのだろうが、私はそうもいかなかった。そうすると、ベッドやソファの上かテーブルの上くらいしか清潔なところはないのだが、方や柔らかすぎて、方や素っ頓狂すぎて集中できたものではない。もちろん縁側なんてものはない。屋外ならば芝生やらなんやら座れるところはあるのだが、夜に、しかも衆人環視のもとに出てまでする気はしなかった。この問題はキャンプ用のマットが押入れの隅に転がっていることを思い出してなんとかなった。
いざ窓を少し開け、モーテルの客が忘れていったキャンドルに火をつけて、あぐらをかいて指先を合わせた。目を閉じて、遠くで車が来て過ぎるまでを聞いて感じる。すると携帯が振動する。馬鹿め。こうなってはもうおしまいだった。一度に5、6度短く震え、誰がこんなにしつこくメッセージを送ってくるんだと気になってしまった。それでも少し抗って座禅もどきを続けてはみたが、一切は空だといくら今躍起になって心中で唱えてみたところで、この座禅の物真似が終われば真っ先に携帯を引っ掴んでメッセージを確認することはわかっていた。それならばなぜ今こうやって無理をしているんだ、何にもなりやしないのに。と思って悲しくなった。誰も見てやしないのに格好つけて、まるで時間の無駄じゃないか。と思って虚しくなった。結局10分もしないうちにそのメッセージやTwitterを見て苛々し始めたから、目を休めただけで他になんの意味もなかったことは自明ではあるのだが、モンティパイソンが人生や死の明るい面を見つめようと歌っているとおり、何事も悪いことだけじゃない。いいことを結論から言うと、どうして私がこんなに気が立っていたのかの原因を少し整理することができた。ざっくり言えば職場の人間関係で、まあ、これまでに1000回も繰り返してきたことだ。他人を所有して思い通り動かそうとするのは結構だが、残念ながら私にそのお人形の役は向いていない。
座禅もどきをやってよかったことは他にもある。思い至った苛立ちの原因や心の動きなどについてむあっと日記に書き連ねることができたことや、それでも書き足りないエネルギーをここに費やせたことだ。直接座禅で気が鎮まるわけではなかったものの、書く気になり、書いているうちに落ち着いた。書くことに良い影響を与えていそうだから今後も座禅の真似事を続けてみよう。