キャンモアで最後の休日だからって、何か特別な日というわけではない。山河をどれだけ見つめていようが目に焼きつくなんてことはあり得ない。
だからと言って書き終えた小説に手を入れたりするのはちょっと違う。バンクーバーへ向かう13時間のバスの車中、半日がかりで太平洋上の空を横断する飛行機の中、成田で翌朝の福岡行きの飛行機を待つ間...。そこには馬鹿みたいに座っているだけの時間があるのだから。
荷造りをするつもりだ。いつもギリギリになってしまうから、先に片付けて思考をはっきりさせるのがいいだろう。今書いているこのブログも、思考の整理作業だ。急がば回れとはまさにこのこと。少し遅く目覚めた1日をこのまま無駄にしないためにも、椅子に座り、今日という1日を机上に据える。こうして、ごく近い過去、現在、未来の時間を俯瞰して眺める行為はすごく有意義だ。
とうとうこの小さな街を離れる。潮時なのだ。僕はまだ金や義務の重みで動けなくなるほど中身がぎっしりしてやしないから、どこへだって行ける。でもアメリカを旅していた時に感じていた、自分は風に流されるままのビニール袋だという感覚とはまた少し違ってきているから面白い。少しずつ、いろいろな責任を受け入れる準備をし始めているように思う。バイクで日本全国を旅した果てにダムに飛び込んだ青年がいるそうだが、彼のことを下地にして自分のことを物語ってみたいと思った。彼は死に、僕は生きている。そこに何の違いがあるのだろうか。